徳島毎日新聞の「日本風景写真」

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書誌事項

タイトル別名
  • 'Japanese landscape photograph' in Tokushima Mainichi Shimbun

抄録

1909年8月4日から翌年4月23日にかけて徳島毎日新聞(徳毎)紙上に「日本風景写真」と題する写真が連載された。明治末期の風景観の一例として報告する。○体裁 「日本風景写真」は101回にわたって不定期に連載された(数字上では99の次が「完結」となっているが、28が重複しているため実際は101である。ただし第49回については該当日の新聞が破損しているため確認できていない)。原則として第1面(紙面は現在の新聞と同じA2版)の下部にハガキ大の写真が1日に1回ずつ掲載された。「日本風景写真(三)箱根芦の湖」という形式の表題がつけられている他にキャプションはなく、関連記事もない。○背景 この企画がいかなる意図の下で行われたかについては当時の紙上にも、また徳毎の後継紙である徳島新聞の社史にも記載がない。しかし当時徳毎は徳島日々新報(徳日)と販路競争しており、この8月3日から紙面を刷新していた(版組を改め掲載情報量を増やした)。また徳日の本格的な写真掲載が大正期であるのに対して、徳毎はすでに1904年に写真を掲載したほか、1910年劈頭の活動として写真班・製版局の設置を広告している。本企画は上記の紙面刷新と連動しいわば<写真の徳毎>をアピールするためのものであると考えられる。 しかし連載中に写真班が組織されたということは、本企画が外部の写真家に大きく依存していたことを窺わせる。それまで徳毎は立木信造と提携していた。立木はすでに「学校教授上の参考」に資することを一目的とし徳島中学・師範の地理科担任教師による解説を付した『徳島県下名勝写真帖』を刊行している(1903年。筆者未見)。また彼は営業目的で日本各地に出向いており、そのおりに各地の写真も撮影しているようである。「日本風景写真」第13回の祖谷かずら橋の写真はこの『写真帖』所収のものと同じに見える。「日本風景写真」の多くは立木が提供したものではなかろうか。○内容 このように、本企画は多分に写真掲載自体の宣伝という性格が強く、かつ立木個人の撮影活動に依存したものであると思われる。恐らくはそのため、「日本風景写真」という名称にもかかわらず、取り上げる対象・地点において何らの系統性・体系性も認めることができず、掲載順序にも明瞭な意図が窺えない。それでも、最終回に「富士」を配し北海道や台湾(うち一つは台南神社)を取り上げていることからは、確かに「日本」を意識していることがわかる。 取り上げられた風景を題名によって分類すると、いわゆる自然景よりも社寺なども含んだ人工物の方がやや多い。自然景の多くは名所図会などにも取り上げられている伝統的なものであるが、遠景ではない「立山の頂上」には近代登山との関連も想像できる。人工物のなかでは神社(10回)が最も多いが、橋(7回。うち6回は鉄橋)や公園(6回)など近代的な題材が取られている。こうした点に新しい名所観への緩やかな移行が認められる。

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詳細情報 詳細情報について

  • CRID
    1390001205692972160
  • NII論文ID
    130007015630
  • DOI
    10.14866/ajg.2003f.0.120.0
  • データソース種別
    • JaLC
    • CiNii Articles
  • 抄録ライセンスフラグ
    使用不可

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