飛鳥時代の中軸古道と藤原宮の位置選定に係わる新たな視点

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  • An original viewpoint which dictates the location selections of the ancient central roads during the Asuka era and of the Fujiwara-Gu Imperial Audience Hall.

抄録

藤原宮の中軸線は,南北に直線的に走る古道である中ッ道,下ッ道両道の距離を正しく二等分する位置に対応している。このことから,藤原宮が既存の両道の位置に基づいて決定されたというのが通説である。中ッ道は北へは山背(山城)の木津に通じ南は飛鳥の橘寺から吉野に通じる。下ッ道は奈良盆地を南北に縦断する道でこの北は宇治,山科を経て近江につながる。日本書紀の推古21年(西暦613年)に,又自難波至京置大道,つまり,難波より(飛鳥)京に至る大道を置く,という極めて簡潔な記述があり,これが横大路だろうとされる。成立年は不確かであるが,東は伊賀,伊勢に通じ,西は竹内峠または穴虫峠に比定される大坂を越えて河内に至る。岸(1993:p.35)によれば,中ッ道と下ッ道の横大路での距離は,大宝令以前の測地法では1000歩(3千分の1地図上2118m)となる。藤原宮の内裏と朝堂院の境界はこの横大路から500歩であって,藤原宮中軸線と下ッ道・中ッ道両道の距離500歩と一致している。藤原宮立地がこの三つの直線古道から決定されたという通説はこの論理の流れからは説得性を持つ。<br> 既存研究を踏まえつつ,過去に言及されてこなかった視点から,発表者は飛鳥三古道の位置だけでなく,藤原宮の位置も,推古紀の観勒の助言によって成立したと考えた。こう考えることで考古学的発掘などを含めて既存研究で理解しにくい問題も解決することが可能となった。この要旨では,一点のみに言及する。 発表者は,GISによる大和三山の地質や地形を調べる過程で,藤原宮が大和三山の垂心に位置することを「発見」した。後に,千田稔(2008)『平城京遷都』の「大和三山」の項(pp. 163-164)に同様の発見が記されているのに邂逅する。次に引用する。「天武天皇にとってもっとも関心があったのは,大和三山を取り込むような方法で宮をつくることであった。三山の位置と関係づけながら藤原宮の位置を決めたと思われる。(中略)偶然といってよいが,三山の頂上を頂点とする(中略)垂心が中ッ道と下ッ道の間の中心線上にのった。(中略)あまりにも偶然性が強く,頭から否定する人も多い。そのため,三山からなる三角形の垂心という考え方はわきにおくとして」,とここで垂心の話は終わる。 千田稔氏の思いも重ねつつ,大和三古道と藤原宮の位置選定について,発表者は考えてきて,ついに電撃的に,持統天皇が登場する御井のうた,に垂心の成立を見いだした。藤原宮御井の歌の「埴安乃 堤上尓 在立之 見之賜者」の意義を,見いだした。/埴安(はにやす)の 堤の上に あり立たし 見(め)したまへば /大和の 青(あを)香具山は 日の経(たて)の 大御門に 春山と 茂(し)みさび立てり /畝傍の この瑞(みづ)山は 日の緯(よこ)の 大御門に 瑞山と 山さびいます /耳成の 青菅山(あをすがやま)は 背面(そとも)の 大御門に よろしなへ 神(かむ)さび立てり。 <br> この解釈を当日,述べたいと思う。<br><br>

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詳細情報 詳細情報について

  • CRID
    1390001205694573824
  • NII論文ID
    130005490102
  • DOI
    10.14866/ajg.2015a.0_100107
  • データソース種別
    • JaLC
    • CiNii Articles
  • 抄録ライセンスフラグ
    使用不可

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