「失いつづけたすべてのものの打ち上げられる場所」と「行くべきところ」との間で : 文学教育の「転回」と「希望」のために(<特集>「文学教育の転回と希望」を受けて)

書誌事項

タイトル別名
  • Between "Where All Our Lost Things Are Cast Away" and "Where We Should Be" : For the "Turn" and "Prospect" of the Teaching of Literature(<Special Issue>Responses to "The Turn and Possibility of Literary Teaching")
  • 「失いつづけたすべてのものの打ち上げられる場所」と「行くべきところ」との間で--文学教育の「転回」と「希望」のために
  • ウシナイ ツズケタ スベテ ノ モノ ノ ウチアゲラレル バショ ト ユクベキ トコロ トノ アイダ デ ブンガク キョウイク ノ テンカイ ト キボウ ノ タメニ

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抄録

なぜか。「テクストと読者との相互作用過程」において読者のうちに「作品」がどのように生み出されるかということが文学教育においては重要である。それらの半分は書き手の差し出したものに、そして半分は読者の抱いているものに左右される。わたくしたちは書き手の残した記述をもとにして、そこに描かれている<表徴>を捉え、自らの読みをつくりあげる。読者であるわたくしたちが、幾たびも読み返すことによって、その捉え方は変わっていく。それはある意味でテクストの送り手を「裏切る」過程なのかもしれない。そうやってテクストの送り手を「裏切る」ことが、わたくしたちの「作品」を生み出し、読みをつくっていく営みでもある。「テクスト」はわたくしの「失いつづけたすべてのもの」を指示対象とする。そして、わたくしがわたくしのなかに構成したそれを読むということが、わたくしたちの「行くべきところ」を探る営みとなるのである。それが、須貝千里の言う、「あらゆる言葉」が「対象そのもの」との「隔絶に晒されている」事態を生き延びる道であり、一筋の「希望」であると考える。

収録刊行物

  • 日本文学

    日本文学 56 (8), 53-62, 2007

    日本文学協会

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