「純粋贈与者」はどこまで純粋か : 教育の起源をめぐる不純な考察(コメント論文,「贈与と交換の教育人間学」という問題圏,フォーラム3)

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タイトル別名
  • To What Extent Are the "Pure Donors" Pure? : Impure Origins of Education in a Derridean Perspective
  • 「純粋贈与者」はどこまで純粋か--教育の起源をめぐる不純な考察
  • ジュンスイ ゾウヨシャ ワ ドコマデ ジュンスイ カ キョウイク ノ キゲン オ メグル フジュンナ コウサツ

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抄録

教育の起源を、教わる側の必要にではなく教える側の贈与に見る矢野の議論は、人間本質論・人間存在論から導出される必然的な事実として自明化されがちな教へ育をふたたび「謎」として現出させ、そのことによって教育への教育哲学的な接近を可能にする。しかし他方、そこでは、贈与という出来事が教師=贈与者に名寄せされたことの結果として、交換関係からの贈与の出現という、本来めざされていた出来事が分析困難になっているように思われる。本稿は、矢野も依拠しているデリダの贈与論、とりわけ『時間を与える-I.贋金』に即して、贈与者ではなく贈与されるものが、交換の精神からの贈与の出現を可能にしていることを示す。そして、教育においても同様の構造が見られることを示唆する。

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