逸話の専制:前イスラーム期詩人アルムラッキシュ・アルアスガルの詩の読解

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タイトル別名
  • The Tyranny of the Anecdote: Alternative Readings of the Pre-Islamic Poet, al-Muraqqish al-Aṣghar’s Poem and Its Anecdote (<Special Feature> Arabic Poetry)
  • The Tyranny of the Anecdote : Alternative Readings of the Pre-Islamic Poet, al-Muraqqish al-Asghar's Poem and Its Anecdote

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抄録

アルムラッキシュ・アルアスガルは前イスラーム期の西暦6世紀に活躍した詩人である。アルムラッキシュ・アルアクバル(西暦550年頃没)の甥であり、著名な詩人タラファの父方のおじと言われている。本研究はアルムラッキシュ・アルアスガルの詩の一作品とそれにまつわる逸話(khabar)を扱う。この作品はA-lā ya-slamī〔どうか無事で〕で始まるミーミイヤ(ミームによる押韻詩)であり、アルムファッダル・アッダビー(西暦786年頃没)によって編纂された名高い古典アラブ詩選集『ムファッダリイヤート』に収録された、ファーティマという名の女性への詩人の恋慕と彼女を失う悲哀をうたったものである。この詩が収録されたリオールLyall編『ムファッダリイヤート』では、アルムラッキシュ・アルアスガル以外の作品と同様に、注釈家アルアンバーリー(西暦916年頃没)によって詩の直前に逸話が挿入されている。この逸話の内容が事実であるとすれば、そこから詩人の出自や作品成立の契機を知ることができる。本研究の主目的はアルムラッキシュ・アルアスガルの詩と逸話との関係を考察し、詩の解釈における逸話の役割をあきらかにすることである。リチャード・バウマンのパフォーマンス理論および読者受容批評理論を援用し、逸話が詩の直前に挿入された状況や逸話の存在が詩の解釈に与えてきた効果を考察する。このふたつの理論は、詩人と聞き手・読み手の間、語り手と聞き手・読み手の間に生じる相互作用の視点による詩と逸話の検討を可能にさせるものである。聞き手・読み手が詩と共に逸話を知ることによって、詩の解釈に有力な示唆が与えられる。一般的にも逸話が詩の注釈として機能することは過去の幾つかの研究で論証されている。しかし、逸話は聞き手・読み手に特定の詩の解釈を強要し、他の解釈の可能性を排除してしまうものでもある。本研究では、アルムラッキシュ・アルアスガルのミーミイヤの解釈における、逸話による専制と言うべき制約と偏向を具体的に論じる。まずはじめに逸話と詩の読解を試みた後に、古典アラブ詩の伝統的視点を踏まえながら、詩のみの読解を行う。逸話によると、アルムラッキシュ・アルアスガルはファーティマの心を射止め、彼女の寝所に通うようになるが、その密会は彼の従兄弟であるジャナーブに知れてしまう。ジャナーブに懇願された詩人は、仕方なくジャナーブを自分の身代わりに仕立て上げ、ファーティマの閨房へと送り込む。男がアルムラッキシュ・アルアスガルではないと気づいたファーティマは即座にジャナーブを追い出し、アルムラッキシュ・アルアスガルとの関係を断ってしまう。そこでアルムラッキシュ・アルアスガルが詠んだ詩がそれである。この逸話によって、読み手はかつてこの詩が成立した状況を思い描くことができるのみならず、続く詩の作品を期待し、受容する態度を整えることができるといえる。しかし、この逸話が詩人以外の人物によって挿入されたという事実を忘れてはならない。この逸話はアラブ・イスラーム文学の伝統に深く根ざしてきたハバル(逸話)という形式をとっており、真正なハバルであると思われるが、詩成立の契機としての史実性には疑問符が付く。一方、作品のみをみると、それは古典アラブ詩の慣例や規則に立脚し、独自の文学的価値を備える秀逸な詩であることがわかる。詩に綴られた、恋人への張り裂けんばかりの想いと自分の元へ戻ってほしいという、去りゆく彼女への詩人の切ない訴えは読み手の心に痛いほどに迫ってくる。にもかかわらず、逸話を伴った詩の解釈では、例えば詩中で詩人がうたう恋人への熱情は、悔恨にあふれた弁解と解釈される。これは逸話の効果による、すり替えである。詩人は作品に、より広い意味の可能性を与えようとしていたのかもしれない。逸話が制約された解釈を読み手・聞き手に強要するのである。本研究は、アルムラッキシュ・アルアスガルの逸話を詩と共に読むことは詩自体の解釈にひとつの補助線を与えるが、それは逸話が読み手・聞き手に特定の解釈を押し付けるものであり、他にもありうる詩の意味を限定することになると結論づける。

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