場所論からの〈男性性と身体〉再考

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  • Rethinking Masculinities and Bodies through 'Place’

抄録

<p>1.報告の目的と背景</p><p> 本報告の目的は、男性性と身体の関係を、私自身のフィールドワークの知見に基づきながら、場所論の視点から再考することである。</p><p></p><p> フェミニスト地理学の勃興とともに、地理学は(白人)男性優位の学問であると批判されてきた(Rose 1993,Blunt and Rose 1994, Longhurst 2001, Blunt and Dowling 2006) 。欧米の地理学においてはこうした批判が、斯学にすでに内在化されているが、残念ながら日本の地理学界では、その認識が共有されているとは言えない(Kumagai and Yoshida 2016)。それを阻んでいる背景の一つは、地理学に根強い論理実証主義への志向性であろう。その中では、客体と主体、客観と主観、そして観念・論理と身体・感情が分離され、前者に重きを置き、後者を排除する構造がある。本稿はそれを乗り越えるための試論を提供するものでもある。</p><p></p><p>2.ジェンダー/男性性と身体</p><p> フェミニスト地理学は、地理学の中で看過されてきた身体の問題に注目してきた。地理学で身体が注目される一方で、その議論が生身の身体(material body)の議論を欠いていたとするLonghurst(2001)は、Douglas(1966)の枠組みを援用しながら、女性の身体が持つ流動性(fluidity)——身体から滲出する経血、母乳…——が、境界を侵犯する特質を持つことにより、男性からの惧れや、公的場所からの排除をもたらすとする。</p><p></p><p>男性(性)と身体の関係性には、両面価値的な性格がある。一方で、男性性(男らしさ)は、しばしば肉体的な屈強さ、身体接触を伴うスポーツ、また暴力と結び付けて語られてきた(Connell 1995)。他方で、身体や自然を女性に割り当て、男性を文化的・理性的存在とみなす二項対立が通文化的に存在する(Rose 1993; Longhurst 2001; Ortner 1974; Ortner and Whitehead 1981)。西洋文化においては、白人成人男性が身体の軛からより自由な(あるいは自らの身体的ニーズを他者によって満たされ得る)存在であるのに対し、女性や同性愛者、人種的・民族的マイノリティ、同性愛者、障碍者、老人や子供…は身体と深く結びついた存在として語られててきた(Longhurst 2001:13) 。</p><p></p><p>もちろん男性性は時間的にも地理的も偶有的なものであり(Berg and Longhurst 2003)、男性性と身体の関係性には、空間的な変異と、時代的な変化が存在する。ジェンダーを論じる地理学者の重要な仕事は、空間や場所がどのように男性性と身体との関係性を構築・規定しているかを、現実のローカルな場所において具体的に検討することだろう。</p><p></p><p>3.パプアニューギニアの男性性と瘢痕文身儀礼</p><p></p><p> 本報告が取り上げる瘢痕文身は、パプアニューギニアのセピック川流域の男の成人儀礼に広くみられる慣習である。腹から背中にかけて、刃物で無数の傷を彫り込み、ワニを模した瘢痕を作り出す苛酷な儀礼である。キリスト教の布教により、未開で残酷な風習として禁止された地域が多いが、セピック川南部支流域にあたるブラックウォーターの村々では、伝統文化に寛容なカトリックが布教したため、残されていた。私が1986年以来通ってきた村で、この儀礼にはじめて立ち会ったのは、2018年8月、21回目の訪問でのことだった。</p><p></p><p> 当日の報告では、この儀礼が、具体的な場所との関係性の中で、どのように執り行なわれ、それが男性性と身体の関係性をいかに構築しているか、そしてそれが場所の文脈の中でどのような意味を持ち、またその意味がいかに変容しているのかを、 参与観察に基づきながら語ることにしたい。</p>

収録刊行物

詳細情報 詳細情報について

  • CRID
    1390001277352423936
  • NII論文ID
    130007710952
  • DOI
    10.14866/ajg.2019a.0_159
  • 本文言語コード
    ja
  • データソース種別
    • JaLC
    • CiNii Articles
  • 抄録ライセンスフラグ
    使用不可

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