獅子文考

書誌事項

タイトル別名
  • A Study of Lion’s Pattern
  • 獅子文考 : 法隆寺蔵獅子狩文錦の伝来
  • シシブンコウ : ホウリュウジゾウ ジシ シュブン キン ノ デンライ
  • “Fabric with Design of Hunters and Lions” in Horyuji Temple
  • 法隆寺蔵獅子狩文錦の伝来

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抄録

本研究では、7世紀後半に制作されたとみられる獅子狩文錦(法隆寺蔵)の伝来を取りあげた。獅子狩文錦(以下、本作例と記す)は、文様にエキゾチックな人物の容貌があらわされていることから西アジアから西域を経由し中原へ伝播した染織品や金工品との類似性を指摘され、中国唐代にとみなされてきた。本作例は寺伝によると聖徳太子ゆかりの宝物で、法隆寺東院夢殿に伝来してきたという。7世紀後半頃、唐で制作された華やかな錦が法隆寺に現存することは非常に興味深い。なぜなら当時の法隆寺は、大壇越聖徳太子を失ったうえに天智九年(670)に伽藍が全焼しており、経済的に非常に苦しい時期にあったからである。そこで私は、本作例が異国風デザインであることから当時一流の文物であったと想像し、このようなものがいかなる経緯で法隆寺にもたらされたのかについて述べるとともに、その制作地について再検討することとした。古来百獣の王と称されてきたライオンをしたがわせる人物は強者とみなされたため、西アジアでは王者がライオンを倒す図像がさかんにつくられた。先行研究によると、獅子狩文はササン朝ペルシャが起源であるという。ところが、本作例の有翼馬の背には「山」や「吉」といった漢字があしらわれているうえに、高度な織成技術によって制作されているため、従来、その制作地を中国とみなしてきたのである。しかし、私は7世紀の日本でも天寿国繡帳のような優品を制作していたことに鑑み、日本の技術者に本作例を制作できた可能性を考えてみたい。 法隆寺は7世紀後半の苦しい時代を経た後、寺僧たちによりかつての壇越聖徳太子を信仰するという新しい思想によって盛り返し、8世紀半ばには朝廷の女性たちの信仰を集めた。そこで私は、こうした女性たちが太子を崇める意識から王者のしるしであった中国製の獅子狩文の織物を模倣して仏堂荘厳のための幡を制作し、法隆寺に施入したのであろうと結論づけるものである。

収録刊行物

  • 山野研究紀要

    山野研究紀要 17 (0), 1-10, 2009

    学校法人 山野学苑 山野美容芸術短期大学

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