学際的な手法を用いた近世後半新田開発の進展過程の復元

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タイトル別名
  • Reconstruction of the process of new fields in the late Edo era using an interdisciplinary approach
  • A case study of Sanjobara in the southern part of the Saijo Basin, Higashi-Hiroshima City
  • —東広島市西条盆地南部,三升原を事例として—

抄録

<p>1. はじめに 近世の新田開発に関する研究は,主に歴史学や歴史地理学,土木史の分野で蓄積されてきた。1980年代以降,文字史料だけでなく,絵図史料を統合した学際的な研究が数多く進められてきた(木村,1983, 橋本, 2010など)。また新田開発の水利を考える場合,地形の高度差を利用するため当時の地形を復元することが必要である。ただし従来の研究では,地形の把握は,地形図の利用が一般的であり,地形図では微地形を把握するには限界があった。また戦後の圃場整備や宅地造成などにより,地形や水利施設が大きく改変されていることが多いという問題もあった。これらを克服する新しい手法として,Structure from motion-Multi view stereo(SfM-MVS)技術を採用した。SfM-MVSは,地形改変前の空中写真から詳細なデジタル地表モデル(DSM)を作成できる利点をもつ(内山ほか,2014など)。用いた空中写真は,圃場整備前の1966年に国土地理院が撮影した2万分の1モノクロ写真(1200dpi)で計8枚である。</p><p> 対象地域は,東広島市西条盆地南部,三升原である。19世紀初頭の広島藩では,逼迫した財政を立て直す国益政策として,土地の開発とそれに伴う商品作物の生産および商品化が目指された(土井,2016)。その政策を具現化した地域の一つが三升原であるものの,その進展過程は不明であった。一方,同じく藩主導で進められた近隣の柏原の新田開発の進展は弘胤ら(2018)が明らかにしている。本研究では,三升原の新田開発の進展過程を,広島県立文書館所蔵の文字史料『国郡志御用書出帖 賀茂郡三升原 ひかえ』,水利施設の設置を要求する際に添付された絵図の控えである10枚程度の絵図史料,上述のDSMなどの分析を統合した学際的な手法で明らかにする。</p><p></p><p>2. 地域概観 三升原は,西条盆地南縁に位置し,周囲を流れる河川よりも数〜20m高い段丘面上にある。三升原の段丘地形は,約14‰の勾配をもつ上流側の東部と,水平な下流側の西部に区分され,三升原は西部に位置する。西部は開析が著しく進み,細長い形状をしており,面上には微妙な起伏がある。三升原集落は,周囲の段丘面よりも少し高く,南北の道路に沿って街村状に立地する。道路は江戸時代からあり,山陽道が通過する西条四日市と,広町の瀬戸内海の沿岸を結ぶ主要な道路である。</p><p>3. 新田開発の進展過程 開発は1808(文化5)年から1819(文政2)年の12年間において,1808〜1810年の唐櫨の植え付けと枯死による失敗の3年間,空白期間の3年間,1814〜1819年の水田の稲作と畑作をすすめた6年間に区分できる。唐櫨の植え付けと失敗の期間を前期,稲作と畑作を行うための開発の期間を後期とわける。前期開発計画の主体は藩であり,唐櫨の苗木の用意,肥料代の提供も藩が行った。後期では,藩の役人の視察によって開発が始まる。その後,段丘面上で水田による稲作を行うための用水路や溜池などの整備を中心に行われた。前期とは異なり,両村に入植した百姓などが村内に住居を構え,水田や畑の開発に従事した。用水路や溜池の築造事業の計画は,地元の割庄屋や住民がおこない,藩にその認可を求めている。また藩から認可された事業資金は,その多くが賀茂郡内の豪農である割庄屋の寄付であり,藩や役人の出資は限定的であった。</p><p>4. 微地形と用水路の関係 書出帖にある12本の用水路の記載と絵図の分析,及び圃場整備前の空中写真の実体視から、当時の用水路の位置を圃場整備前のDSM上で特定した。文書や絵図の記載には周りの地表よりも高い位置にある「揚溝」と,低い位置にある「堀溝」が区別されている。書出帖の記載を集計した結果,揚溝が1,760間(3,168m),堀溝が1,856間(3,341m)でほぼ同じ長さであった。一般的に,用水路を周囲よりも高く設置することは,漏水の危険性があるため行わない。揚溝にした2つの理由は以下の通りである。1)三升原集落よりも用水路の上流側にあたる東側の範囲が,集落よりも最大70cm程度低い。集落やその西側の田に水を送るためには,集落周辺の高さまで用水路をかさ上げする必要が生じた。2)自村内に用水路を設置する目的で,隣村に入らないように浅い開析谷を横切る用水路を設置するため,標高の低い部分を揚溝にしたと考えられる。</p><p>【附記】文書館及び下向井龍彦広島大名誉教授には研究の遂行にご支援いただいた。記してお礼申し上げる。【文献】木村(1988)村の語る日本の歴史9,そしえて;橋本(2010) 耕地開発と景観の自然環境学,古今書院;内田ほか(2014) 防災科学技術研究所研究報告81;土井(2016) 広島藩の地域形成, 渓水社;弘胤ほか(2018)広島大総合博物館研究報告10</p>

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詳細情報 詳細情報について

  • CRID
    1390008057582415872
  • NII論文ID
    130008093033
  • DOI
    10.14866/ajg.2021a.0_49
  • 本文言語コード
    ja
  • データソース種別
    • JaLC
    • CiNii Articles
  • 抄録ライセンスフラグ
    使用不可

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