Miss Whitney's Challenges and Achievements: An American Woman' s Life Discovered from The Shoso'in-related Documents in the Meiji Era

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抄録

type:P(論文)

正倉院は厳重な勅封制度で奈良時代の宝物を今に伝える建物であるが、近代の一時期、毎年夏の曝涼期間に合わせて規定に従った申請をすれば一般人でも建物内部で宝物を拝観できる制度があった。本稿は、その制度を活用して正倉院の内部に入った最初の女性が、アメリカ人Miss Adelaide Norton Whitney(1869-1896) であることを指摘したうえで、短い生涯の中にも関わらずキリスト者としても大きな実績を上げた彼女の生涯を概説するものである。正倉院は奈良公園内の東大寺大仏殿の北西に現存する建物で、大仏を建立した聖武天皇(701-756) の遺品を中心に各種の宝物を保管している。古代より収蔵品は天皇の名のもとに厳封されるという勅封制度で保管され、江戸時代末期までは東大寺がその実際的管理を担ってきた。明治維新以降に管理主体となった明治政府は、明治5年(1972年)に正倉院を開封して内部を点検し、その所管を宮内省など各省に分担させたうえで、収蔵される宝物のさまざまな「活用」を開始した。たとえば明治16年(1883年)には年一回収蔵品を曝涼する制度を復活させ、さらに明治22年(1889年)からはその時期に合わせて一定の資格を備えた希望者に正倉院内部での拝観を許可している。そこで拝観願人名簿などの記録を精査したところ、明治22年の初年度から女性の拝観申込みがあったものの、実際に一個人として正式に申請を行い正倉院内で宝物を拝観した最初の女性が、「ミス・ホイットニー」Adelaide Norton Whitneyというアメリカ人女性であることがわかった。彼女は5歳の時に家族で来日、27年の短い生涯のほとんどを日本で過ごしている。また1882年に父を、1883年には母を失うという悲劇に見舞われた。しかし十代の半ばという若さにも関わらず、当時イギリスで始まった聖書の読書運動の流れに呼応し、日本支部であるScripture Union of Japanを立ち上げるという実行力と指導力を発揮した。そこで筆者は、当時の正倉院関連の文書や、さらに医師兼在東京アメリカ公使館通訳としても働いた実兄のWillis Whitneyの妻や勝海舟の息子と結婚した実姉Claraの残した日記、さらには当時の新聞記事などを分析し、Adelaideが一人の女性として達成した先駆的な業績の数々をここに紹介する。

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