横光利一『上海』論 : <見る><見られる>の関係から読む

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タイトル別名
  • Yokomitsu Riichi's Shanghai : A Discussion from the Perspective of "Seeing" and "Being seen"
  • ヨコミツ リイチ シャンハイ ロン ミル ミラレル ノ カンケイ カラ ヨム

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抄録

近代日本文学の研究では、横光利一『上海』を様々な視点から取り上げている論文が多くある。本論では、横光利一の上海「体験」を簡単にまとめ、作中人物たちの『上海』体験を考察する。『上海』においてもその空間は横光が体験した上海と同じく様々な場が見られ、またそこに描かれている人間も実に多様である。その中で、作中人物が何を考え、人や空間、そして様々なモノとどのようにかかわっているのかを細かく分析し、作品全体の構造を深く考察した。

本稿の「一」では、これまでの先行研究において参木は消極的で無性格、甲谷は行動的で非情というイメージの対比がなされてきたが、一見、対照的に見られる両者には、特徴において共通点を見いだすことができた。甲谷も春婦に近い女性たちと接し、また愛する女性宮子とのやりとりには参木と同じく、繰り返される発展性がないパターンが見られる。それは、各人物がたがいに<知らない>情報が存在していることによっており、最後までひとつとして恋愛が成就せず作中人物が「ひとり」でいることで、作中において個がより明確に浮かび上がる効果があることを指摘した。

「二」では、<見る>側として確立された男性作中人物ではなく、<見られる>女性にスポットを当てて考察した。作中におけるお杉について細かく考察すると、二五章では、今までお杉といるときには視点人物であった参木の姿が、視点人物お杉の眼を通して映しだされることにより、対象化されているのだ。宮子、芳秋蘭といった他の女性作中人物が参木と同じ場面にいるとき、その視点人物は参木である。それに対してお杉だけが視点人物参木と決別し春婦としての道を進むことで、他の女性にはない、参木を<見る>視点を持つのである。この点において、お杉は他の女性たちと一線を画すると言えるだろう。

このように、作中において視点人物参木と対象としての女性たちの<見る><見られる>関係を唯一お杉が反転させていることを見いだした。さらに、春婦に身を落とした彼女のあり様とロシア人春婦の境遇は似通っており、人物の描かれ方のレベルの差を超えて同じ空間に描かれていること、つまりお杉が名もなき人々の内実を語る役割も持っていることを指摘した。お杉には、作品全体で様々な描かれ方のレベルが異なるもの同士につながりを持たせる働きがある。また、最後にお杉の個性が引き立つことは、名もなき人々のひとりひとりが個性を持っている存在であることが引き立つことになる。

収録刊行物

  • 日本研究

    日本研究 43 71-99, 2011-03-31

    国際日本文化研究センター

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