日本・スコットランド文化交流史 : 明治のジャポニズムと英国グラスゴウ

書誌事項

タイトル別名
  • Japan and Scotland, an historical relation between the Japonica of Europe and role of Glasgow in early Meiji period
  • ニホン スコットランド ブンカ コウリュウシ メイジ ノ ジャポニズム ト エイコク グラスゴウ

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説明

明治日本の近代技術教育の発展において、スコットランド人技術者や教育者が果たした役割がいかに大きかったかについて、わが国では、あまり知られていない。  しかし一九世紀の大英帝国を支えたスコットランド人外交官・科学者・企業家・商人達のネットワークが世界に広がり、その中からアジア・極東へつながり、それを介して最も有名な西洋人商人のT・B・グラバー、明治政府第一号のお雇い外国人技師(測量)のR・H・ブラントン、工部大学校(のちの東京大学)校長のH・ダイアー、日本の造船・海運業界に多大の貢献をなし帰国後グラスゴウ在日本領事となったA・R・ブラウン等が来日した。  他方、日本人青年も工部大学校卒業後に、さらなる高等教育を求めてグラスゴウ大学に留学した。そこには幕末以来、日本と通商関係をもつスコットランド人商人達の支援活動が存在した。  事実、英国の産業革命はスコットランド人技師によって開始され、また完成されたのであり、その成果は、さらに新世界へと運ばれていった。ヴィクトリア盛期に、イギリスが「世界の工場」と讃えられた時代に、グラスゴウを中心とするクライド渓谷地域は「大英帝国の工場」と呼ばれた。またグラスゴウは「第二の都市」(ロンドンに次ぐ)として栄え、別名「鉄道の都」、「造船の都」と賞賛された。  同時にグラスゴウは、文化面でも大変に注目を集める都市となり、特に絵画と建築で有名となった。英国絵画界に新風を送る「グラスゴウ・ボーイズ」と呼ばれるリーダーが登場し、彼らは特に日本の美術に関心をもち、西欧世界に日本伝統の美と価値観を紹介するのに大きく貢献した。  一八八八年と一九〇一年にグラスゴウで開催された国際博覧会は、「グラスゴウ・ボーイズ」や同市のビジネスマン達に支援され日本館も設置され、それを通じて日本の文化や技術的発展が注目を集めた。翌一九〇二年には日英友好同盟が締結され日本は当時のリーダー達が憧れた「東洋のイギリス」と呼ばれるに至るが、その歴史的背景にはスコットランドと日本の親密な関係が役立ったと言えよう。  本稿では、私は日本とスコットランドの文化的交流のなかで「グラスゴウ・ボーイズ」の中からC・R・マッキントッシュ、E・A・ホーネル、G・T・ヘンリー、J・A・ウィッスラーに焦点をあてて考察してみたい。

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