<論説>皇極朝の阿倍氏 : 乙巳の変の歴史的前提

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タイトル別名
  • <Articles>The Abe Clan 阿倍氏 during the Time of the Court of the Emperor Kogyoku 皇極朝 : The Historical Background of the Coup d'Etat of 645 (乙巳の変)
  • 皇極朝の阿倍氏--乙巳の変の歴史的前提
  • コウギョクチョウ ノ アベ シ イッシ ノ ヘン ノ レキシテキ ゼンテイ

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説明

小攷は、乙巳の変に至る政治過程を、阿倍氏の動向を通じて究明したものである。 第一章では、『日本書紀』と『藤氏家伝』上における乙巳の変に至る事実経過の差異について検討した。中臣鎌足の摂津三島退去、軽・中大兄への接近は、上宮王家滅亡事件以前の皇極朝初頭に求める『藤氏家伝』上の記載を支持すべきこと、『日本書紀』の記載は、その編纂者による並べ替えの所産であることを明らかにした。 第二章では、『日本書紀』皇極三年正月乙亥朔条および『藤氏家伝』上にみえる軽皇子の宮の所在地に関し考察を加えた。中臣鎌足の別業と同じく三島に所在し、その設置は姻戚氏族であった阿倍氏が所領を提供したことに由来すると推察される。これにより、軽皇子と姻戚氏族である阿倍氏が強固に結び付いていたことを改めて確認し得た。 第三章では、大化の左大臣で阿倍氏の族長的地位にあった麻呂の動静に焦点を絞り論及を試みた。『日本書紀』推古三二年一〇月癸卯朔条および舒明即位前紀から、阿倍内麻呂は蘇我氏本宗家と近しい間柄にあったことがわかるが、前章までの成果を踏まえるに、中臣鎌足が軽皇子に近付いた皇極朝初頭段階にはその関係は破綻を来していたと捉えてよい。だからこそ、阿倍氏と密接に繋がっていた軽皇子に中臣鎌足は接近したのである。 舒明即位前期から、阿倍内麻呂は大夫のなかでも有力者であったことが窺える。かかる人物が反蘇我の旗幟を鮮明にしていたと目されることより、少なくとも皇極朝の初頭段階では、蘇我氏本宗家の政治的孤立が進んでいたと想定し得るのである。

収録刊行物

  • 史林

    史林 87 (1), 104-130, 2004-01-01

    史学研究会 (京都大学文学部内)

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