京都・染織祭の創設と展開 --昭和恐慌・大衆消費社会・産業観光振興の交点--

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タイトル別名
  • The Establishment and Development of the Sensyoku Festival in Kyoto : Point of Intersection of Showa Depression, the Public Consumption Society, Industry and Tourism Promotion
  • キョウト ・ センショクサイ ノ ソウセツ ト テンカイ : ショウワ キョウコウ ・ タイシュウ ショウヒ シャカイ ・ サンギョウ カンコウ シンコウ ノ コウテン

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抄録

染織祭は昭和6年(1931), 昭和恐慌期に京都染呉服商(問屋)が発起し, 京都染織業界が行政の支援を受けて創設された。主体は公民合同による「染織講社」であった。20年以上, 春の京都で挙行された染織祭は主に祭祀と女性時代衣装行列から成る。前者は岡崎公園グランドに社殿を仮設して染織祖神を祀り, 後者は8時代構成(上古-江戸)で143人分の衣装を制作, 芸妓が着装し, 市中を行列した。現在の祇園祭と同等の観客数に染織業界のみならず, 多くの業界が便乗した。男性装束のみの時代祭と対照され, 当時「京都四大祭の一つ」と謳われた。しかし, 京都の高度な学識や技術を駆使した時代風俗行列は, その豪華ささゆえ, 日中戦争が始まると自粛され, 昭和8-12年の5年間で終わった。その後, 戦時下では苦労しながらも祭祀のみを継続し, 衣装は日本文化を鼓舞する展覧会に求められ, それまでの染織祭から変質した。そして, 戦後復興期にも祭祀は続き, 衣装は時代祭に協力する形で再び市民の前に登場した。恐慌・戦争・復興という激動の時代, 短命に終わった染織祭の歴史研究はこれまでほとんどなく, 『京都の歴史』第9巻にも記述がなく, 今回, 前述したように祭りの全容を初めてつかんだ。とくに, その創設をめぐり, 昭和恐慌と大衆消費社会の萌芽という両者の関係に焦点を当て, (1)中核の京染呉服商(問屋)を分析し, 中間層ではなく, 第一次世界大戦以降に成長してくる「大衆」を顧客にしていたこと, (2)昭和恐慌が大衆消費社会を促進したこと, (3)支援をした行政(京都市)は不況脱却のため, 産業振興・観光振興を図りたい思惑を持っていたことを明らかにした。京都染織業界, 京都市, 京都産業界等, さまざま思惑が交錯した染織祭は, 昭和恐慌・大衆消費社会・産業観光振興の3つの交点で花咲いた祭りであった。

収録刊行物

  • 人文學報

    人文學報 113 1-47, 2019-04-25

    京都大學人文科學研究所

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