トーマス・マンの時間論

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  • Das Zeitverständnis im Zauberberg von Thomas Mann
  • トーマス ・ マン ノ ジカンロン

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抄録

トーマス・マンの『魔の山』(1924)は、ひとりの青年がスイスのダヴォースの結核療養所で七年間を過ごす話であるが、マンは1939年アメリカのプリンストン大学の学生に向かって自作について語っている。この「『魔の山』案内」と題した講演においてマンは、この小説が「二重の意味で時の小説(Zeitroman)である」(XI, 611)1)と言う。すなわち、第一には第一次世界大戦前のヨーロッパの精神状態を描き出すという意味で時代小説(Zeitroman)であり、第二には「純粋な時」そのものを対象としているという意味で時間小説(Zeitroman)なのである。つまり、主人公が生きた第一次大戦勃発前の時代(Zeit)を描きながら、同時に小説のなかで時間(Zeit)というものについての議論が展開されるというわけである。一般に小説はある時代を描くものであるが、それにとどまらず時間そのものをテーマにしていることがこの小説の特徴となっている。 本稿は、『魔の山』で述べられる時間についての論議を検討し、その時間論の特徴を、マンが下敷きとしたショーペンハウァーとニーチェの理論との比較において明らかにしようとするものである。その際、神話小説といわれるマンの『ヨゼフとその兄弟たち』(1933-43)の序章「地獄行」において提示されている時間論も参照したい。 トーマス・マンの時間論についてはすでに多くの研究がなされている2)。本稿との関連で言えば、片山論文はマンの時間論の下敷きとなっているショーペンハウァーとの対応を周到綿密に指摘していて、大変有益であり恩恵も被った研究である。しかし対応関係を示してはいるが、マンとショーペンハウァーとの相違については言及していない。カルトハウスはニーチェの永遠回帰の影響について論じていて大いに参考になる。本稿では若干異なる視点を提供したい。『魔の山』において時間論は、あるときは登場人物の言葉によって、あるときは語り手の発言によって展開される。時間についての論議がとくに集中的になされるのは第四章の「時間感覚についての付論」および第五章、第六章、第七章のそれぞれ冒頭に置かれた節である。そこに現れた時間論を中心に考察していく。

収録刊行物

  • 欧米文化研究

    欧米文化研究 24 75-92, 2017-12-27

    広島大学大学院総合科学研究科欧米文化研究会

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