宮良長包の音楽教育活動に関する研究(8) : 教育誌『教育音楽』を手掛かりに

書誌事項

タイトル別名
  • ミヤ リョウチョウ ホウ ノ オンガク キョウイク カツドウ ニ カンスル ケンキュウ(8)キョウイクシ 『 キョウイク オンガク 』 オ テガカリ ニ
  • A Study of Choho Miyara's Work in Music Education(8) : Clues from the Education Journal Kyoiku Ongaku

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抄録

沖縄県の音楽教育の先達者である宮良長包(1883-1939)は、沖縄県師範学校を卒業後、故郷の八重山島高等小学校を皮切りに、沖縄県師範学校付属小学校、そして、沖縄県師範学校で音楽教諭として教鞭を執った。大正11(1922)年頃から(沖縄県師範学校勤務の時)何度か上京したようで、日本教育音楽協会主催の音楽講習会を受講。当時の交通事情を考えれば、並々ならぬ意欲が窮えるが、講習会内容やその後の長包への影響の大きさなどは、資料的手掛かりが皆無と思われ、これまでほとんどわかっていなかった。大正11年、日本の音楽教育者の資質向上のための機運が高まり、「日本教育音楽協会」が発足されることになるが、長包はその立ち上げの会議に、沖縄県から唯一参加していることが、上記“協会”発行の月刊誌『教育音楽』を繙くことで判明した。昭和9(1934)年には、「夏季音楽講習要領」を長包自身が作成し、自ら講師として沖縄県内の学校教育に普及・寄与している。その資料は、『教育音楽』にヒントを得ていることもわかった。本論文は、『教育音楽』の大正12年1月創刊号から昭和14(1939)年までの発行を繙くことにより、長包が上京し講習会で学んだことや、日本教育音楽協会との関わりを通して、沖縄県の音楽教育の資質向上にどのように貢献したかを探求する。さらに、長包は自身が編集した『南島唱歌第一輯』、『宮良長包創作曲集』、『琉球の新民謡』の出版が、『教育音楽』に関わりのあった福井直秋や山田耕筰等の協力で実現していることも判明した。宮良長包は沖縄県の音楽教育に何を求め、何を目指したか、『教育音楽』を手掛かりに、明らかにしたい。尚、「汗水節」(作詞:仲本稔/昭和4(1929)年)の追加研究について、本稿で補足しておく。

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