日輪兵舎の用途の多様化に関する考察

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  • Diversification of the use of <i>Nichirin-heisha</i> (sun barracks)

抄録

<p>満蒙開拓青少年義勇軍制度は,昭和戦時期の日本に日輪兵舎とよばれる特異な建築を生み出した.それは,茨城県内原の満蒙開拓青少年義勇軍訓練所(通称「内原訓練所」,1938~1945年)の訓練生を収容するための宿舎兼教室として,古賀弘人により考案された円形に近い平面と円錐形の屋根をもつ建造物である.丸い平面を太陽(日輪)になぞらえることにより皇国思想との親和性が強調され,精神主義的な訓練になじむものであったことに加え,モンゴルの包を想起させる形によっても,内原訓練所,ひいては満蒙開拓青少年義勇軍制度そのものの象徴として言及されてきた.一方で訓練生でも建てられる簡便さと建築コストの低さという実用的な特徴も兼ね備えていた.</p><p>発表者はこれまで,この形式の建造物が,終戦までの間,各地の学校,修練道場などの開拓民訓練施設といったさまざまな主体により模倣され全国に伝播していた事実を発掘し,満州開拓制度の全国的浸透過程を明らかにすることを試みてきた(松山 2004,2015,2021ほか).そうした各地の日輪兵舎の多くは,高等小学校在学生や青年学校在籍者,成人移民を検討しているものなど,潜在的なものも含めた満州移民候補者のために建設されたものであった.一方で,前述のような錬成主義や簡便性から,必ずしも満洲移民の訓練を目的としない各種訓練施設においても,この時期に日輪兵舎が建設されたケースが実は少なくない.</p><p>本発表では,そうした満洲移民促進以外の目的に日輪兵舎が「流用」されたケースをとりあげ,戦後その皇国思想の体現性ゆえに長い間取りあげられる機会が少なく忘れられつつあった日輪兵舎が,戦時期には国策をとおしてどれほど社会に浸透した存在であったかを考察する. </p><p>その一つ目の例は,農業訓練とは異なる目的の研修施設として建てられたものである.厚生省の体力増強を目的とした津田山修練道場(神奈川県)のほか,棚倉の営林局技術員養成所(福島県),大館の滑空道場の宿舎(秋田県)などがそれにあたる.他の例としては,主として建設の簡便性をいかして,工事などの労働者の仮設宿泊所として用いられたケースである.橿原神宮造営工事(奈良県),静岡大火の復興工事(静岡県),根室海軍航空基地(北海道)の建設工事などが例としてあげられる.ただ,全国から勤労奉仕者が集まった橿原神宮造営工事(「八紘舎」というバリエーションが用いられている)では,簡便性の点だけでなく皇国主義のメタファーとしての要素も色濃く見受けられる.これは紀元二千六百年記念事業の一環であり,他の少なくない建設事例に影響を与えたと考えられる.</p><p>これらの日輪兵舎の多くは,公的費用によって建てられたにもかかわらず,戦後の自治体史などの二次資料では十分には言及されてこなかった.一方で,その形態の特異性から写真資料には比較的恵まれている場合もある.写真も含めた同時代資料を発掘することにより,日輪兵舎の伝播過程を正確に詳らかにしていく必要がある. </p><p>松山 薫 2004.満蒙開拓の痕跡をたずねて-山形県にあった「日輪兵舎」〔序章〕-.東北公益文科大学総合研究論集 8: 75-90. 松山 薫2015.日本各地の「日輪兵舎」-忘れられた満蒙開拓青少年義勇軍の象徴-.季刊地理学 67: 191-195. 松山 薫 2021.農民道場と日輪兵舎.東北公益文科大学総合研究論集 40: 89-94.</p>

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詳細情報 詳細情報について

  • CRID
    1390012169713422848
  • DOI
    10.14866/ajg.2022a.0_150
  • 本文言語コード
    ja
  • データソース種別
    • JaLC
  • 抄録ライセンスフラグ
    使用不可

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