法政大学と学徒勤労動員 : 川崎木月校地の大学予科を中心に

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タイトル別名
  • Hosei University and student labor mobilization : Focusing on the university preparatory course at the Kawasaki Kizuki Campus
  • ホウセイ ダイガク ト ガクト キンロウ ドウイン : カワサキ モクゲツコウチ ノ ダイガク ヨカ オ チュウシン ニ

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抄録

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従来の「法政大学史」では学徒勤労動員がほとんど触れられていなかった。法政大学の学生が勤労動員されなかったのではなく、食糧増産のため北海道へ赴いた学生、灼熱の軍需工場で負傷する学生、動員先の空襲で亡くなった学生もいた。こうした学生たちはいつ、どのぐらいの期間、どこへ動員されたのか、動員先ではどのような作業に従事し、大学当局はどのように対応していたのか。本稿では近年の調査研究成果を用いて、法政大学における学徒勤労動員の実態を捉えることを試みた。学内刊行物のほか、戦時下の予科長を務めた井本健作の日記や近年実施した卒業生への聞き取り調査報告を用いたため、考察の中心は予科の勤労動員である。 法政大学における勤労動員のはじまりは日中戦争下の国家総動員として形式的に実施した集団的勤労奉仕である。予科では政府からの命令が出る以前より、授業の一環に組み込んで、民間の軍需工場に学生を派遣した。それを可能にしたのは「川崎」という京浜工業地帯に学校が位置していたためであろう。1943年に入ると大規模化し、動員学徒に宿舎が用意されるなど、それまでの「修練的勤労」から「実質的勤労」へ転換した。勤労動員が本格化すると、授業はほとんど行われず、教員は工場側との交渉、巡察に奔走し、学生は工場へ直行する生活となった。個人により経験は様々であるが、本来は熟練技術を要する現場で、労働力不足から動員された学生たちは常に危険と隣り合わせであった。作業中の事故やトラブルが絶えず、戦局の悪化に伴い資材が届かなくなると会社側も工場稼働に行き詰まり、学徒勤労動員とのミスマッチが色濃くなっていった。 なお、資料的制約から、今回は予科を中心とする勤労動員に留まったが、関連する学生団体や学校教練、学部や専門部の学生や動員先で負傷・死亡した学生など、更なる調査研究が必要である。

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