海に生きる人びとと海の生き物 -能登国鳳至郡名舟村の江戸時代から-

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  • People Living with the Sea and Sea Creatures: Nafune Village, Noto Province since the Edo Period

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抄録

能登半島の先端の町、輪島市の沖合に七ツ島、舳倉島と呼ばれる島嶼が浮かぶ。「海女の島」として広く知られる舳倉島では、弥生時代にはすでに人びとが渡り活動していた。その舳倉島に向かう途中に位置する七ツ島でも、早くから人びとが活動していたことが知られている。遥か弥生の昔から人びとが舳倉島へ渡っていた最大の動機は、ニホンアシカの狩猟にあった。ニホンアシカは能登では「胡獱(トド)」と呼び慣らわされており、七ツ島では江戸時代にも胡獱猟が行われていたが、明治に入り途絶えたことが明らかになっている。 本稿の主たる課題は、この胡獱猟をめぐる海に生きる人びとの攻防である。海の生き物と海に生きる人びととの攻防、と言い換えてもよいだろう。 縄文時代より、日本列島をとりまく海域のいたるところに生息していたことが確認されているニホンアシカは、現在環境省のレッドリストで、特に絶滅の危機が高い「絶滅危惧ⅠA類」に分類されている。本稿はこの事実を念頭に置き、江戸時代、能登国鳳至郡名舟村(現石川県輪島市名舟町)に生きた人びとが七ツ島で行っていた胡獱猟をめぐって闘われた幾多の攻防を、「自然と文明」という関心のもとで考察を試みたものである。また、その前提として名舟村と能登に定住した筑前国鐘ケ崎海士との、舳倉島をめぐる鬩ぎあいにも触れている。 江戸時代、アシカ類は毛皮の下に厚い脂肪層をもっていることから、その脂肪を煮沸して抽出した油が主に商品として流通した。毛皮も皮革製品の原材料となり、油を抽出した後の肉や骨などは肥料として利用された。本稿は、このように商品価値を高めたニホンアシカの狩猟、争奪をめぐる漁師間のみならず、商人、加賀藩等との攻防を仔細に検討することによって、江戸時代の文明史的位置を問おうとする試みでもある。

収録刊行物

  • 常民文化研究

    常民文化研究 1 (2022) 91-123,v-, 2023-03-30

    神奈川大学日本常民文化研究所

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