明治初期の愛知県土木事情と黒川治愿

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抄録

明治4年の廃藩置県, の時、現在の愛知県の区域は13の県に分かれており、旧藩の形態がなお残っていたが、明治5年になって名古屋県が額田県を吸収してようやく愛知県の原形が成立した。県の土木行政が実動しはじめるまでには更に数年を要したと見られる。明治8年には全国的に大巾な人事移動が行なわれ、当愛知県でも国貞廉平という人物が参事(現在の副知事)として名東県(現香川県)から転出してきた。彼は後に愛知県令(現知事)になるのであるがこの年同県から一人の若い土木技術者をスカウトしてきだ。名を黒川治悪(以下治愿という), といい、以後明治18年まで愛知県につとめた。わずか10年間ではあったが県令に昇進した国貞廉平の下で治愿は愛知県下の土木工事に多くの実績上げた。治愿の業績は「名古屋市史・人物編」始め県下のいくつかの市町村誌等に述べられているが、彼の足跡を知るうえで非常にユニークな情報源は現地に残る石碑である。彼の名とともに係った土木工事のことを刻んである石碑は広く県下19ケ所に現存している。その分布は岡崎市5、春日井市4、名古屋市・西尾市・犬山市各2、安城市・幸田町・弥富町・立田村各1である。建碑年は明治13年から大正8年に渡っており、文献上でしが確言忍できなかった1個を除き企て硯地で確認できた。多くは治水碑であり、中には頭部の欠落したものや台座が流失したとみられるものもあるが大半は良好に管理されている。また現在でも毎年田植の時期になると近辺の人々が集まり感謝の意を込めて彼の碑の前で頭を下げる祭事が行なわれているところもいくつか知られている。碑文を集めてみると、多くの場合建碑者は付近の村々の連名であり、内容はそれまでの劣悪な治水上の旧状がその土木工事を遍していかに改良されたかを記述しており、地元からみた当時の土木の事情をかいまみることができるのではないかと思う。

収録刊行物

  • 土木史研究

    土木史研究 11 305-307, 1991

    公益社団法人 土木学会

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詳細情報 詳細情報について

  • CRID
    1390282679304288640
  • NII論文ID
    130003839618
  • DOI
    10.2208/journalhs1990.11.305
  • ISSN
    18848141
    09167293
  • 本文言語コード
    ja
  • データソース種別
    • JaLC
    • Crossref
    • CiNii Articles
  • 抄録ライセンスフラグ
    使用不可

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