明治国家体制における行政訴訟制度の成立過程に関する体系的考察
書誌事項
- タイトル別名
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- A Legal Systematic Study on Formation Process of the Administrative Litigation System in the Meiji Era
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説明
従来、明治行政訴訟制度の研究については、個々の時代において行政訴訟制度がどのような役割であったのかについて論じた研究が幾つか存在した。本論においては、これらの従前の研究史を考慮の上、法令を重視しつつ、この明治行政訴訟制度の成立過程とこれに関係する周辺事項を中心に論考するものである。そして、明治行政訴訟制度の所管権限が、明治政府によって、司法裁判所からどのような変遷過程を経て分離され、最終的には行政裁判所の設置と共にその管轄に組み込まれていったのかを、行政権の権限集中化の観点から考察したものである。明治行政訴訟制度は、そもそも、江藤の司法改革の一環として発足したものであった。そのため、司法権(明治初期段階では司法省と司法裁判所が未分離の状態)が当初目指した行政訴訟制度の発足の趣旨は、人民救済の観点が強いものであった。ここに、わが国で初めての行政訴訟事件となった、所謂、小野組転籍事件が発生し、京都裁判所の所管から司法省臨時裁判所へ法廷が移され、明治六年の政変もあって、国家的事件に発展して行く。しかし、京都府の責任者であった槇村らの拘留が特命により解かれることで終局を迎えた。本事件の影響は大きく翌年の明治七年には司法省第二四号が布達され、行政裁判の事項は司法裁判所がこれを所管することが公に認められたものの、行政訴訟事件が司法裁判所に提訴された場合には、司法省を通じて太政官の正院に具上申稟することが義務付けられたのである。その後、全国的に行政訴訟事件が急増したことに伴い、明治一一年に明治政府は、行政処分願訴規則案を元老院に上程することとなった。しかし、この規則案の立法趣旨が行政訴訟を否定したものであり、行政官庁に人民が歎願するという形式のみを許すという前近代的なものであったため、元老院の反対によって廃案に至った。その後、明治政府は、新たな法律・勅令・太政官布告・司法省布達等の立法を順次制定することによって、司法裁判所の管轄である行政訴訟の裁判権に深く関与して行くのであった。やがて、明治政府は、その補助機関である法制局等を設置することにより、専門的に行政訴訟事件に対処して行く体制を整備した。その後、帝国憲法及び市制町村制が制定されることにより、明治政府は、明治二三年に行政裁判法を制定し、行政裁判所の設置を達成したのであった。ここに、明治政府は、司法権の行政権に対する牽制を排除することに成功したのである。また、行政裁判法の姉妹法である訴願法が同年に制定されたが、これら行政訴訟関係法令は、訴訟事項に列記主義を導入していたため、人民にとって、極めて権利救済の機会を抑止されたものとなった。本論では、この明治政府による小野組転籍事件以来の首尾一貫した行政権の権限裁量の確保を主眼とする明治国家体制が如何に行政権優位の体制であったのかを関係法令を通じて明らかにしようとするものである。
収録刊行物
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- 法制史研究
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法制史研究 2007 (57), 123-159,en8, 2007
Japan Legal History Association
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キーワード
詳細情報 詳細情報について
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- CRID
- 1390282680306095488
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- NII論文ID
- 130003655769
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- ISSN
- 18835562
- 04412508
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- データソース種別
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- JaLC
- Crossref
- CiNii Articles
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- 抄録ライセンスフラグ
- 使用不可