斉合性と非錯誤

  • 小林 久泰
    The Humanities Research Institute, Chikushi Jogakuen University

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  • Non-deceptiveness and Non-erroneousness

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抄録

正しい認識手段のひとつ,知覚を定義する際に,ダルマキールティが『プラマーナ・ヴィニシュチャヤ』と『ニヤーヤ・ビンドゥ』の中で「非錯誤」(abhranta)という概念に言及したことは周知の通りである.これはディグナーガの知覚の定義にはない新たな概念であった.ヴィニータデーヴァは,ダルマキールティの知覚の定義の中のこの「錯誤していない」という語をプラマーナの定義「斉合性を持つこと」(avisamvada)に相当するものとして理解する.これに対してダルモーッタラはこのようなヴィニータデーヴァ流の理解を同義語反復となるとして否定する.しかし,問題はダルモーッタラが言うほど単純なものではない.まず,このような彼の批判の前提には,知覚は正しい認識であるので「斉合性を持つ」という性質を既に備えているという考えがある.しかし『ニヤーヤ・ビンドゥ』の簡潔極まりない表現から,知覚の定義の中の「知覚」という語が「斉合性を持つこと」を含意していると考えるのは極めて困難である.また,『ニヤーヤ・ビンドゥ』がそれ自体で完結しているひとつの独立作品であることを考えると,その中に正しい認識の定義が提示されていない以上,知覚の定義で提示される「錯誤していない」という表現が単なる知覚の定義以上の意味を持つ可能性も十分考えられる.さらに,ダルマキールティ自体,「錯誤していないこと」と「斉合性を持つこと」を同列に扱っている箇所がある.従って,ダルモーッタラの批判をそのまま受け入れるには注意が必要である.

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