The Notion of "Sequence" as Conceived of in the Sphota Theory

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  • スポータ論証における<順序>の検証

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古代インドにおいて,語の本質を追求した結果,文法学派が到達したのはスポータという概念であった.彼らが語意表示者として提唱したスポータは,順序を持たないもの(akrama)として捉えられる.一方でヴェーダ聖典の教令の解釈に関連してことばに関する考察を発展させたミーマーンサー学派は,語意表示者として諸音素を上げ,さらにそれが意味理解の起因となるための必須条件のひとつとして「特定の順序」を提唱した.こうした2つの主張の食い違いは,二派の間に長くに亘る論争を齎すことになる.では文法学派のスポータ理論において,順序の概念はどのように取り除かれるのか.これを,文法学派に多くを依拠しつつも独自の議論を展開したMandanamisraの著作Sphotasiddhiを検討することで解明を試みる.本論文では先ず,当該文献の議論展開を追いながら,対論者として挙げられるミーマーンサー学派の音素論を,Mandanaがどのように斥けるかを検討し, 両者の立場が交わらない根本的な原因が,<順序>という属性の帰属先の違いであることを明らかにする.その後Mandanaが提示する意味理解のプロセス(=スポータ開顕のプロセス)を見た上で,それ以上分割できない単一の実体としての語=スポータの妥当性を検討する.

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