徳島県におけるすだちの特産地形成過程

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  • The growth of Sudachi production in Tokushima Prefecture

抄録

1.研究の目的<BR> 約40種類にのぼると言われる日本の香酸柑橘(酢みかん)のうち、徳島県特産のすだちは大分県のかぼすと並ぶ代表的なもので、年間生産量7千tと全国の97%を独占している。最大の柑橘である温州みかんの生産は1960年代に西日本各地で急拡大を遂げたが、生産過剰や輸入自由化による価格低下に直面し産地の大幅な再編を迫られた。もともと温州みかんに不適な気候条件の中山間地域で始まったすだちの栽培は、技術革新による周年出荷の実現で安定した収益の確保に成功し、1980年代にはみかんからの有力な転換作物として生産量の増加を見た。本研究では徳島市の南西に隣接する神山町と佐那河内村を事例地域に取り上げ、産地形成の過程を跡づけながらその生産構造を明らかにする。<BR>2.産地形成の過程<BR> すだち生産の開始から拡大、成熟に至る経過はおおむね10年ごとに以下の4つの時期に区分され、栽培面積の推移は典型的なロジスティック曲線を描く。<BR> 第1期 徳島県におけるすだち栽培の歴史は江戸時代に遡るが、1956年に神山町鬼籠野地区で養蚕業や甘藷栽培の行き詰まりを打開すべく農家有志が栽培に取り組んだのが、商業的生産の始まりである。1960年代には消費宣伝と販路拡大を図りながら、同町におけるすだち生産は徐々に増加した。<BR> 第2期 1970年代に入り、低温貯蔵技術の開発やハウス栽培の導入によってすだちの周年出荷体制が確立される。9月に出荷される露地すだちのkg単価が100円前後であった当時、長期貯蔵ものや加温ハウスものは1500-2000円の高値で取り引きされ、生産農家の収益性を大幅に高めた。<BR> 第3期 温州みかんの価格低迷と生産調整が本格化する中で、1979年に県はすだちへの転換支援政策に乗り出す。1981年2月の大寒波でみかんの木が大量に枯死するなど大打撃を被ったのを契機に、佐那河内村など周辺産地ですだちへの転換が進んだ結果、栽培面積は10年間で2.5倍に急拡大した。<BR> 第4期 1990年代なると、新興産地の成長にともなう競争の激化、長期不況による業務向け需要の伸び悩みなどのため市場は飽和気味となり、すだち栽培面積は約600haで頭打ちとなった。<BR>3.事例地域の生産構造<BR> 2000年におけるすだちの栽培面積は、神山町126ha(徳島県全体の21.2%)、佐那河内村109ha(同18.3%)で、県内で1位と2位を占める。また、販売農家のそれぞれ60%と75%がすだちを栽培している。<BR> 神山町鬼籠野地区はすだち栽培の先進地で、長い経験を持つ栽培農家の技術水準は高い。1戸あたり栽培面積は零細だが、密植による集約的な経営で補っている。貯蔵用冷蔵庫の設置は早かったが、気候が冷涼なためハウス栽培はふるわない。中心集落である東分・中分・西分では米や野菜との複合経営が多いのに対して、山間部には一の坂集落のようにすだち栽培に特化した集落も見られる。<BR> 後発産地である佐那河内村では、温州みかんからの改植や高接による転換園が多く、1戸あたり経営面積が大きい。1970年代はハウスすだちの産地として成長したが、1983年以降は採算上の理由から貯蔵の方が多くなっている。鬼籠野地区に近い北山集落は、みかんからすだちへの転換がドラスティックに進んだ例で、情報や人の交流がこうした動きを促進する役割を果たしたと考えられる。<BR> このように、神山町と佐那河内村はすだち産地として対照的な性格を示しながらも、出荷時期などで機能的な補完関係を有している。また両者に共通する産地形成要因として、行政や農協による支援体制のほかに徳島市への近接性を指摘できる。すなわち、意欲ある生産農家は機動的な個人出荷で利益を追求しうる一方、通勤兼業を選んだ農家が加工向けの粗放な露地栽培を続けることも可能なためである。しかし、近年はいずれのケースでも就業者の高齢化が進んでおり、後継者の不足とあいまって今後の展開は楽観を許さない状況にある。

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詳細情報 詳細情報について

  • CRID
    1390282680569401216
  • NII論文ID
    130006961135
  • DOI
    10.11518/hgeog.2002.0.000029.0
  • データソース種別
    • JaLC
    • CiNii Articles
  • 抄録ライセンスフラグ
    使用不可

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