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Segregation in Yokohama's foreign settlement by Westerners
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- Otobe Junko
- Graduate Student, Kokugakuin University
Bibliographic Information
- Other Title
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- 横浜居留地における欧米人の居住分化
Description
<BR> 近代初頭におけるわが国の外国人居留地の特質を考察するためには、内部の土地利用や居住者の動向に関する詳細な分析が不可欠である。しかし、従来の分析は現存するデータを十分活用したものとはなっておらず、広く流布している通説にもまた再点検の余地を残すものが少なくない。<BR> 幕末の安政五カ国条約により、1859年7月に日本最初の開港場となった横浜では、「居留地」と呼ばれる開港場の一定地域に限って、外国人たちの商取り引きと、住宅の構築が認可された。その結果、関内居留地は主として貿易関係業務地区、山手居留地は住居地区として利用された、とみなされている。このうち関内居留地内部の土地利用について、藤岡ひろ子(1992)は、機能分化した9つの同質地域に分類し、堀川沿いを「混合地区」=商業地域から華僑の地域への漸移地帯、旧横浜新田を「混合地区(華僑地区)」としている。この中で後者での「個人住居」の存在に触れ、「多くの華僑が住んだ」としているが、Japan Directory(戦前に横浜、神戸、長崎などや香港等の開港場で発行されていた英文の年鑑)をみると、藤岡が「個人住居」とみなしたと推測されるPrivate Residenceには、多くの場合、欧米人の氏名が記されており、中国人の氏名記載は決して多くない。<BR> 報告者は現在、1868~1900年におけるJapan Directoryに記載された横浜居留地情報について、データベース分析を進めているが、本報告では、そこに掲載された関内居留地のモPrivate Residenceについて、分析結果を取りまとめたい。そこに氏名を記された人々の特性を、記載された年、年数、場所、職業などから分類し、関内居留地内での居住の実態とその分化について考察した結果は以下のとおりである。<BR> Private Residenceモに氏名が記載されていた人々は、次ぎのような類型に分類することができる。すなわち、a 掲載年数が短く、Private Residence以外にJapan Directoryに記載がないもの、b Private Residenceモ以外にも氏名が記載され、比較的継続年数の長いもの、c 1895年以後に新たに増加するPrivate Residenceで関内居留地内部に広く分布しているもの、である。<BR> 1868から1900年を通じてもっとも多くみられるaは、多くの労働者を必要とした業種である土木・造船関連業や運輸業等の用地の近隣に立地しており、当時の欧米人の居住地であった山手居留地との関連がほとんどみられない。したがってこれらは近隣業務地に勤務した労働者層であったと推測される。継続年数の短いホテルやイン、居酒屋等もaの立地に比較的近い場所、もしくは同一の地番にみられ、滞在期間の短いこれらの労働者に住居を提供していたものと推測できる。<BR> bはPrivate Residenceが記載される地番と同一か、近隣の地番に立地する商社や店鋪にも氏名が見えることから、これらの商社・店鋪に勤務する人物と推測される。これらのなかには、山手居留地にも氏名記載のある場合がみられる。<BR> cは1894年の日清戦争を契機に増加した部分であるから、とりわけ日清戦争により帰国した中国人の代替人と性格付けることが可能である。日清戦争により、居留地人口の2/3を占めていた中国人の帰国が相次ぎ、中国人人口が1893年の3325人から94年には1173人と激減(横浜港在留外国人戸口数表による)したことにより、それまで商社などにおいて中国人が担っていた仕事の代替として多くの外国人労働者が招来されたものと推測できる。したがって、居住者の特性はaに準じるものとみなされる。<BR> 以上のように、横浜居留地に住む欧米人は、社会階層の違いにより山手と関内に居住分化していたこととみなされ、社会経済的地位の高い中産階級・ホワイトカラー層が山手に居を構える一方、労働者階級は職住近接の関内居留地に居住していたが、関内居留地における欧米人は流動的で、短期的な滞在者が多数を占めたものと推測できる。この中でより定着的な居住者のなかには、後に山手居留地へと移動する例も少なくない。関内居留地には中国人集住地区がみられるが、欧米人のPrivate Residenceと隣接した場所とされている。<BR> 横浜居留地の構造をみていく上で、人口の多くを占めていた中国人について考察することは不可欠である。本報告で考察した欧米人労働者層と、それに隣接する中国人の居住状況がどのように変容したのか、これらを今後の課題としたい。<BR><BR><参考文献><BR>藤岡ひろ子(1992):外国人居留地の構造ー横浜と神戸ー, 歴史地理学, 157, 58-84p.
Journal
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- ABSTRACTS of the Annual Meeting, The Human Geographical Society of Japan
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ABSTRACTS of the Annual Meeting, The Human Geographical Society of Japan 2002 (0), 000013-000013, 2002
The Human Geographical Society of Japan
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Details 詳細情報について
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- CRID
- 1390282680569421440
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- NII Article ID
- 130006961143
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- Data Source
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- JaLC
- CiNii Articles
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- Abstract License Flag
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