新潟県二十村における牛の角突きの維持

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タイトル別名
  • Succession of Bullfighting in Nijyuumura Area, Niigata Prefecture

抄録

●はじめに 本報告では,新潟県二十村(山古志村を中心として,小千谷市東山地区,長岡市・川口町・旧広神村の一部を含む地域総称)において行われる闘牛「牛の角突き」(以下,角突き)の歴史的展開とその担い手の実践を通じて,これがなぜ現在まで維持されてきたかを明らかにすることを目的とする.本報告における担い手は,牛の所有者である牛持ち,取組の際に牛を応援する勢子,そして担い手の集合体である角突き運営組織である.全国の闘牛と比較した場合,角突きの特殊性は「必ず引き分けにする」という点にある.また,角突きの起源は明らかではないが,少なくとも200年余りの歴史をもっていると考えられる. ●牛の角突きの歴史的展開と担い手の実践 1960年代中盤から角突きの衰退が顕著となり,一時,角突き牛は1頭までに衰退した.しかし,角突きは1972年に再開され,1978年には国指定重要無形民俗文化財となった.復活当初,その運営組織は二十村全体を統括する越後闘牛会であったが,現在においては,小千谷闘牛振興協議会と山古志観光開発公社の2団体により各地域の角突きが管理されている.かつての角突きは,担い手の生業の延長線上にある娯楽であり,その背景には経済的根拠があった.しかし,現在では,畜産を生業としない担い手が多数を占め,その生業と角突きにはかつて存在した経済的関係は薄く,担い手個人の楽しみ・遊びとして行われている.2004年3月時点での牛持ち人数と角突き牛頭数はそれぞれ80名,117頭を数える.1980年以降の牛持ち数の変化を見ると,小千谷市においては比較的牛持ち数が一定であるのに対し,山古志村においてその減少が顕著である.●考察1.生業と角突きの関係かつての角突きは担い手の生業との密接な関係をその維持における一義的要因としていた.よって,二十村の生業構造の変化はそのまま角突きの隆盛に関連していた.一方,生業構造の変化は角突きに対してネガティブな要因だけではなく,養鯉業という二十村独特の地場産業を定着させ,担い手の流出をある程度防いだという点でポジティブな要因となったとも言える.2.角突きの組織化と観光資源化1970年代の角突きの組織化は,行政の支援を引き出し,恒常的な組織の形成をみたという点で,角突きの維持において大きな役割を果たした.また,角突きは観光の文脈に取り込まれることで,その伝統性はよりいっそう強化される結果となり,観光資源としての角突きの価値を高めた.3.畜産業者の役割二十村に立地する畜産業者は,現在においても生業と角突きが密接に関連していることから,常に30頭前後の角突き牛を自己所有する.また,他の牛持ちから飼育を預託される角突き牛を含めると,全体の5割弱にあたる角突き牛が彼らに管理されている.角突き牛の頭数の維持という面で,畜産業を生業とする担い手は角突きの維持に寄与している.4.角突きを介した人間関係絶対的な勝敗の無い角突きにおいても,「名牛」「横綱級」といった牛への評価が担い手の間には存在し,その評価には,「厩柄」という言葉があるように,牛持ち自身の評価が大いに関係する.そのため,「名牛」などの評価を得ようとすれば,必然的にその担い手間の人間関係が重要となる.牛持ち達は血縁・地縁といった基本的な人間関係や友人関係を大事にする必要があり,これが角突きの担い手間の関係を強化している.全ての牛持ちたちが「名牛」を目指しているわけではなく,「牛を飼っているだけでいい」という牛持ちもいる.しかし,いずれにせよ担い手達は角突きを介して,他の担い手達と時間や空間や話題などを共有することとなり,角突きが必然的に内包する性質が人と人とを結び付け,それ自体を支える要因となっている.

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詳細情報 詳細情報について

  • CRID
    1390282680669590016
  • NII論文ID
    130007015446
  • DOI
    10.14866/ajg.2005s.0.153.0
  • データソース種別
    • JaLC
    • CiNii Articles
  • 抄録ライセンスフラグ
    使用不可

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