Activities of the local industrialist in Shimonoseki in the modern times

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  • 近代下関の発展と地方企業家の活動
  • 秋田寅之介に注目して
  • Focus on Akita Toranosuke

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下関は近世から明治初期にかけて、和船による西廻り海運の中継地として栄えたが、汽船の普及や鉄道の発達により中継地としての機能は弱まり、明治10年代には町勢は衰退傾向にあった。しかし、明治20年代後半からは、日清・日露戦争を契機として、朝鮮半島や中国大陸への窓口としての役割を担う国際的な貿易港として繁栄するようになった。さらに、明治末期以降は、近海のトロール漁業や遠洋漁業の基地としても発展した。このような下関の近代における発展の主な担い手は、貿易業や漁業に関わる商工業者たちであった。そのなかでも、下関の近代の発展を象徴するのが、貿易業関係では秋田商会を運営した秋田寅之介(1874~1953)、漁業関係では林兼商店(後の大洋漁業)を設立した中部幾次郎(1866~1946)といえる。本発表では、前者の秋田寅之介に注目し、近代の地方都市形成において人間主体が果たした役割の一面を検討したい。 秋田寅之介は、山口県厚狭郡藤山村(現宇部市)に秋富家の次男として生まれたが、1893(明治26)年に、19才でその才覚を見込まれ、赤間関市で廻漕業を営む秋田家(商号、柏長)に婿養子に入った。家業の海運業に従事する傍ら、海陸産物の売買にも事業を拡げ、日清戦争中には食糧・雑貨などを朝鮮、満州方面へ輸送し、戦後は台湾へ木材や食糧を販売し、大きな利益を得た。日露戦中の1905(明治38)年には、従来の家業(柏長廻漕部)の業務とは別に、木材・食糧販売を主体とする秋田商会(1911年に合資会社となる)を設立した。日露戦後には満州など中国大陸へ積極的に進出し、大連、旅順、基隆、天津等に支店・出張所を設け、木材を中心とする物資の売買を大規模に手掛けた。さらに、大型汽船を次々に購入し、台湾、満州、中国、朝鮮との海運業に従事するとともに、国内では下関・別府間や、下関・対馬間などの新航路も開設した。また、トロール船も多数所有し、一時期は漁業にも関係し(第一次世界大戦期には、トロール船を船舶不足のイタリアへ売却し巨利を得る)、国内各地で山林を買収するとともに、1920(大正9)年には秋田商会木材株式会社を設立し、国内ならびに中国や満州でも製材業を大規模に営んだ。その他には、1927(昭和2)年に、郷里の藤山村において、兄の秋富久太郎と海面埋め立て事業を行い、地区内に炭鉱(西沖之山炭坑)を開発し、経営に関わったり、1939(昭和14)年には、新潟県で石油鉱区の共同経営を開始するなどの事業を行った。政治的な活動としては、下関市議会議員、同議会議長を務めるとともに、衆議院議員、貴族院議員も務めた。このような、秋田寅之介の多彩な事業活動は、日清・日露戦争を経て台湾、朝鮮半島、満州を植民地化し、中国大陸とも経済的に深く結びつくようになった日本、ならびにその窓口としての役割を果たした下関の発展を象徴するものといえる。また、秋田寅之介は、明治44年に設立された「関門十日会」と称する、下関・門司の経済人が集うサロンのメンバーでもあった。このサロンは、下関市長もメンバーに入り、日本銀行、三井物産、三菱商事、鈴木商店、大阪商船、三井銀行、住友銀行など、大手の銀行、商事会社、運輸業者の支店長を中心に、秋田寅之介らの地元実業家が加わって、総勢30名で構成されていた。その活動内容は詳らかではないが、明治末期以降の下関の発展は、門司と一体のものとして認識され、交流が行われていたことがうかがえる。

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Details 詳細情報について

  • CRID
    1390282680671165696
  • NII Article ID
    130005481586
  • DOI
    10.14866/ajg.2014a.0_180
  • Data Source
    • JaLC
    • CiNii Articles
  • Abstract License Flag
    Disallowed

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