渡良瀬川河川敷の土地機能喪失に関する研究

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タイトル別名
  • Research on loss of land function of Watarase riverbed

抄録

谷中村は足尾鉱毒事件の悲劇的な歴史で今も人々に記憶されている。かつて谷中村だった地域は明治39年(1906年)、藤岡町に編入されたが2010年以降は藤岡町周辺自治体の合併により栃木市の一部となっている。谷中村が地図上から姿を消してすでに1世紀以上がたち、その一連の歴史は資本家が国家権力と結託し哀れな農民に暴虐の限りを尽くして居住地から追い出した、国権の悪逆振りを今に伝える象徴的な話として今に伝えられているが果たして当時の日本政府にそんなことは可能であったのだろうか。資本家と政府は巷間伝えられるように一方的な悪者であったのであろうか。谷中村は遺跡としてその痕跡をとどめるに過ぎない。なお、現在その地域は河川地域となっており、渡良瀬川の河川敷の一部であるという認識がなされている。そもそも旧谷中村は渡良瀬川をはじめとする中小の河川が集中する、江戸時代以前からの洪水常襲地帯である。特に天明3年(1783年)の浅間山噴火の土石流による利根川洪水以来、水害は激化の一途をたどっていたのである。宝暦6年(1756年)から明治31年(1898年)の間、大規模な洪水だけでも56回を記録し、ほぼ二年半に1度の割合で大規模水害に遭遇している地域である。<br>世に名高い足尾鉱毒事件であるが谷中村一村だけが鉱毒被害にあったわけではない。渡良瀬川流域の地域が等しく鉱毒の被害にあっているわけである。足尾銅山は明治10年3月(1877年)に廃坑同然であった徳川時代の銅山を政府が接収し、日光県が管轄していたのを古川財閥当主古川市兵衛に払い下げたことで再び採鉱が始まったものである。その後は巷間知られている通り精錬の排煙と薪炭利用による濫伐が周囲の森林を枯死させ、禿寫化した山腹に降った雨はたちまち渡良瀬川、利根川に流れ込んで洪水のたびにその流域に鉱毒を蔓延させたのである。とりわけ明治23年に発生した洪水はきわめて大規模なもので、この後農作物への被害が顕在化し、鉱毒問題は明治24年の帝国第二議会における田中正造の質問演説によって日本中に知られることとなった。<br>これにより農商務省が農科大学に調査を依頼、鉱毒と農作物被害の関係が明らかにされた。なお、このときの調査報告書が発禁処分とされたとする資料を散見するがそれは明らかな事実の歪曲であろう。渡良瀬川流域の被害は足尾銅山の鉱毒が原因であるとする、古在由直による「足尾銅山鑛毒ノ研究」が掲載された明治25年発行の農学会会報にそのような事実は無い。時の政府が足尾鉱毒問題についてことごとく言論封殺の手段をとったかのようなことが言われているがそのような事実があったとはいえないことを確認すべきである。<br>この時点で谷中村の廃村に至る過程に我々が教えられていた内容と異なる事実が発生してくる。<br>土地収用法執行の状況だけを見ると確かに村民の運命は悲惨であり、その悲劇は読売新聞2006年9月7日からの記事を読む限り、なお継続しているともいえよう。<br>谷中村の悲劇のみを語り伝えることは、対立構造が実にわかりやすく、その心情にも容易に感情移入しやすいため、難しいことではない。しかし、それは同時に自治体の経営に失敗した自治の汚点としての記憶もともに現代の地方自治の疲弊への警鐘として記憶にとどめられるべきものであり、語り継ぐ上で決して忘れてはならない。それどころか実際に財政が危機的状況に陥っている地方自治体が今後も増え続けることが考えられる現在、より一層の重要性を持って語られるべきものであると考えてよいであろう。<br>鉱毒と洪水のみが谷中村を滅ぼしたのではない。その自治体としての機能を消滅したのは財政不健全化と政治の不手際によるところもまた少なくないといえるのではないだろうか。<br>

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詳細情報 詳細情報について

  • CRID
    1390282680672321536
  • NII論文ID
    130005481485
  • DOI
    10.14866/ajg.2014a.0_106
  • データソース種別
    • JaLC
    • CiNii Articles
  • 抄録ライセンスフラグ
    使用不可

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