<神々>の国で、<神>を問う : 「国語教育」問題(<特集>日本文学協会第65回大会(第一日目) <文脈>を掘り起こす-ポスト・ポストモダンと文学教育の課題)

書誌事項

タイトル別名
  • What Is "God" in the Country of "Gods"? : The Lack of Transcendence in the Teaching of Kokugo(<Special Issue>The 65th JLA Conference (1st Day): Unearthing "Contexts": Literary Education and Postmodernism)
  • 〈神々〉の国で、〈神〉を問う--「国語教育」問題
  • カミガミ ノ クニ デ カミ オ トウ コクゴ キョウイク モンダイ

この論文をさがす

抄録

<神々>の国では<この私>を<神>としてしまう。「超越性」と「絶対性」が<神>の本質的な属性であるならば、この事態は<神>の喪失という事態である。<神々>という事態と<神>とは両立し得ないし、そもそも<この私>は<神>ではないからである。<神々>の国では<この私>以外の<神>が意識されていない時にはこのことは忘却されており、問題化されることはない。しかし、<神>と<神>との抗争の時代においては、<神々>の国でもこうした事態を不問に付することが許されない。日本における「言語論的転回」の受容の混迷はこうした<神々>と<神>とをめぐる問題の看過にあった。いや、日本の近代そのものがそうした混迷のなかにあった。このことの自覚が日本の「ポストモダン」を問い、「ポスト・ポストモダン」を展望していくための前提であり、それはまた「国語教育」問題の核心である。こうした問題について、望月理子氏の宮澤賢治の「猫の事務所」の実践報告、また田近洵一氏の「猫の事務所」論(『社会文学』16号所載)をめぐって考え、西研氏が書き下ろされた小学校教材「ぼくの世界、きみの世界」(教育出版の小学校六年生用の国語教科書所載)、氏が竹田青嗣氏とともに考察している「「自由のゆくえ」の問い」(『超解読-はじめてのヘーゲル『精神現象学』)をめぐって考えていく。さらに、これらの検討は〈物語の語りと他者〉と〈小説の語りと他者〉の違いという問題に展開し、野家啓一氏の「物語論」(『物語の哲学柳田国男と歴史の発見』)と田中実氏の「小説論」(「断想」I〜IV、「近代小説が、始まる」これら『日本文学』所載)に向き合い、考究していくことになる。このことは、「国語科教育」の始まりに立ち戻って、その釦の掛け違いを問い質していくこととともに進められていく。

収録刊行物

  • 日本文学

    日本文学 60 (3), 17-32, 2011

    日本文学協会

詳細情報 詳細情報について

問題の指摘

ページトップへ