Transformation of "Subject" and Disappearance of "Body" in Meiji Period

Bibliographic Information

Other Title
  • 明治期日本における「主体」の変容と「身体」のゆくえ(報告論文,近代日本における倫理的主体の形成と身体観の変容,フォーラム1)
  • 明治期日本における「主体」の変容と「身体」のゆくえ
  • メイジ キニホン ニ オケル シュタイ ノ ヘンヨウ ト シンタイ ノ ユクエ

Search this article

Abstract

近代日本に西欧思想が流入する中で、人間観の変容が起こるが、それは必然的に身体観をも変化させる。本論ではそうした変容について近代的主体をいかにして表象するかに焦点を合わせながら議論した。啓蒙思想家福沢諭吉は「一身」として法的、経済的主体を表象したが、そこでは「行為する身体」は「精神」とともに「一身」を構成する要素であった。次世代の井上哲次郎は福沢の「一身独立」論を「身体の道徳である」と批判し、自らは「精神」によって哲学的な主体を表象する。それは、心理学者元良勇次郎による統一科学構想の挫折を受けた「心身二元論」の受容によって分節された「精神」と「身体」をいかに考えるのかという問題でもあった。井上は「身体」を排除せず、むしろそれを「精神」=「人格」によって支配する従順な身体を構想した。しかし、そうした政治性に反発する次世代の教養派、人格主義者たちによって、身体は透明化されることとなったのである。

Journal

Details 詳細情報について

Report a problem

Back to top