霊操の地下茎はどこまで及んでいた/及んでいるのか? : 教育学における「思考の歴史」の可能性に期待して(司会論文,フォーラム2 霊操の書としてのルソー「サヴォワ助任司祭の信仰告白」-パレーシア(本当のことを語ること)の視座から-)

書誌事項

タイトル別名
  • How Far Has the Subterranean Stem of "Exercices Spirituels" Reached? : In Expectation of the Potential of the "History of Thinking" in Education
  • 司会論文 霊操の地下茎はどこまで及んでいた/及んでいるのか?--教育学における「思考の歴史」の可能性に期待して
  • シカイ ロンブン レイソウ ノ チカケイ ワ ドコ マデ オヨンデ イタ オヨンデ イル ノ カ キョウイクガク ニ オケル シコウ ノ レキシ ノ カノウセイ ニ キタイ シテ

この論文をさがす

抄録

生の技術、自己の配慮の技術としてのパレーシアは、ソクラテスに由来し、その後1〜2世紀のヘレニズム・ローマ期の哲学に受け継がれ、やがて3〜4世紀のキリスト教において、自己の欠陥についての自伝的告白へと、その意味と機能を切り詰められていく。この種のパレーシアは、まさに技術として、霊操ないし魂の鍛錬と不可分の関係にあった。室井氏は、報告論文において、ヘレニズム・ローマ期のパレーシア、とくにストア派のセネカに見られるパレーシアの特徴をルソー『エミール』の内に見出し、それによって『エミール』を霊操のテクストとして再解釈しようと試みている。これまで室井氏は、霊操の観点からのルソー再解釈を目指して二つの論文を提示している。この司会論文では、これら二つの論文にまで遡り、本誌掲載の報告論文を、室井氏のこれまでの研究の発展系列の中に、そしてさらに教育思想史研究の中に位置づける。

収録刊行物

詳細情報 詳細情報について

問題の指摘

ページトップへ