中東・イスラム世界にみる法廷の契約と当事者の合意

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  • Court Contracts and Agreements among Parties in the Islamic Middle East (<Special Issue> A Comparative Perspective on Asia: Ownership and Contracts)
  • Court Contracts and Agreements among Parties in the Islamic Middle East

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日常的な約束のなかから、社会的な義務を伴った「契約」を切り出してくる基準線はどこにあるのだろうか?本稿は、ヨーロッパ、中国、東南アジアとの比較のなかで、中東・イスラム世界の契約のあり方を検討し、個人の結びつきの社会的位置づけを探る。オスマン朝時代には、イスラム法廷(カーディー法廷)の文書記録が膨大に残されているが、文書化され、証人を立てて、法廷に登記された契約のほとんどは、不動産と家族法に関係するものであった。両者は、当事者のみならず、親族や隣人を含む、永続的な権利関係に関わるため、文書化と登記を行うことによって、権利の侵害に対抗し、将来の紛争を防止しようという意図をもっていた。契約の登記には、第三者を証人としてたて、法廷の吏員やカーディーの署名も証人としての機能を果たした。また当事者(もしくは代理人)、各種の証人役が出廷し、公式の手数料のみならず、非公式の謝礼などの経費を必要とした。ここからしても、登記の目的は、単発の取引の保証ではなく、長期的な経済的および社会的な利害にあった。しかし、登記の効果は、紛争の抑止力の域をでるものではなかった。訴訟において、売買の証書は副次的な証拠にすぎず、決定打は証人の証言や当事者の宣誓、また有力者の調停であったからである。逆に、偽証や裁判官の買収によって不当な利益を得ることも可能であり、これを常套手段とするものもいた。形式的要件を重んじるイスラム法の原則が、一方では偽証を生み、他方では予想される結論を回避して当事者の合意できる裁決に導くための調停を促した。これに対して、動産の取引は、法廷台帳に登記されることはなく、当事者同士の口頭の約束ないしは覚え書きで行わたとみられる。コーランは、「当事者のその場での取引であれば文書を交わす必要はないが、売買の場合は証人をたてよ」(2:282)と述べているが、法学者は、市場などでの売買(物件と代金の同時交換)であれば文書契約の必要はないと解釈した。イスラム法が禁止する付帯条項付きの契約や利子付きの貸付を行うのであれば、むしろ契約を文書化しない方が得策であった。登記された契約(法廷文書)の外側には、口約束の取引、当事者の間での決済が拡がっていた。人々は、以上のような構造を弁えて、二種類の契約(現代法でいう約束と契約)を使い分けていた。この二つの世界に共通の仕掛けが、アッラー(神)であった。法廷での陳述、証言、宣誓はもちろん、日常的な約束の際にも「神かけて(ワッラーヒ)」というせりふが用いられ、神は、約束の保証人であった。法廷の世界と当事者の世界の違いは、証人の有無、すなわち第三者を介在させるか否かにある。当事者だけでなく、隣人や家族などをふくむ社会(共同社会)の利害に関わるときに、第三者を委嘱して、紛争を防止し、紛争の解決をはかった。それを担ったのが、法廷を舞台とした世界であった。国家は、カーディー法廷にせよ、マザーリム法廷にせよ、法廷の世界を維持することで、行政権力として、人々を取り込むことができた。換言すれば、不動産と家族の管理に関わることが、国家の存在理由のひとつだったのである。契約の難しさは、自由な意志をもった個人をいかに束ねるか、しかも、過去から未来という時間のなかでこれを結びつけることにある。この難題に対して、ヨーロッパでは普遍的な法、中東イスラム世界では「第三者」という存在、中国では「一心の合意」という仕掛けをつくりだした。マレー世界では、交易の場合でも親族関係や口頭の約束が結合の基盤となり、文書契約は発達しなかったが、19世紀以降イスラム法が家族法の領域に浸透し、イスラム法廷が家族の紛争調停の場となっている。

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