希望は誰のために与えられるのか

書誌事項

タイトル別名
  • For Whom Is Hope Given?
  • キボウ ワ ダレ ノ タメニ アタエラレル ノ カ

この論文をさがす

抄録

<p>「隣人愛にはどこか残酷なものがある」というのは、精神分析のラカンによる名言だが、これを「レーニンは隣人を愛したか」というタイトルで論じているのは、ラカン派の哲学者スラヴォイ・ジジェクだ(『迫りくる革命―レーニンを繰り返す』岩波書店)。難解で状況論的なその論脈は措いて、そこで何が言われているかというと、人間は、特に現代人は、隣人とは言わないまでも、たがいに接近すれば接近するほど、愛はさまざまなかたちを取り、果ては、憎しみにさえ変わりうるということだ。</p><p>そこで、たがいにあまりに接近しすぎないように相手との間に「壁」をもうける必要があるのだが、これをラカンは、「大文字の他者」という言葉で述べた。すなわち、「ラカン的な意味における大きな〈他者〉は、他者の隣接性がわれわれを圧倒しないように保証する適切な隔たりを維持することができるようにしてくれる〈壁〉を意味する」(同前)。それで、実際のこの「大文字の他者」というのは、何をするかというと、相手がほんとうは何を欲望しているのかについて、ファンタジーを生み出すことで知らせてくれるというのだ。</p><p>なるほど、「ファンタジーを生み出す〈壁〉」というのはおもしろい表現だ。私たちは、人間関係だけでなく、テキストとの関係においても、接近しすぎないように保証してくれる〈壁〉のようなものを必要としているのではないだろうか。その〈壁〉に守られるとき、テキストがほんとうは何を欲望しているのかを読み取ることができる。私たちは、背後に控えている〈壁〉を確信することによって、テキストのなかにかくされている「希望の言語」を読み取っていくことができるのである。</p>

収録刊行物

  • 日本文学

    日本文学 63 (3), 20-27, 2014-03-10

    日本文学協会

詳細情報 詳細情報について

問題の指摘

ページトップへ