キリスト教神学における歴史認識 -ラインホルド・ニーバーにとっての歴史の意味-

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タイトル別名
  • Views on History in Christian Theology : Meaing of History for Reinhold Niebuhr
  • キリストキョウ シンガク ニ オケル レキシ ニンシキ ラインホルド ニーバー ニ トッテ ノ レキシ ノ イミ

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抄録

イエスが時代の期待を満たす救世主であるという信仰によりキリスト教の共同体が出てきた.キリスト教信仰では,生きた人物としての,そして語り継がれた人物としてのイエス・キリストにおいて,歴史の意味,神の王国が完成する,とされている.イエス・キリストの人生,死,復活の中で歴史に対する神の支配が明らかにされる.ニーバーは,キリスト教信仰で受け入れられる救世主はメシア待望論を拒否する救世主である,として,イエスがメシア待望論を否定する過程でキリスト教信仰が確立したことを明らかにする.ここで,ニーバーは,預言的メシア待望論をイエスがいかに再解釈したかを探り,イエスが預言的メシア待望論の伝統をどのように受容したかを明らかにする.イエスが「人の子」として示した代理の愛は,悪に対する勝利を導く歴史上の一つの力である事を意味する.他方,歴史上の悩める奉仕者という見方は,代理の愛は歴史に於いては敗北するが,それが究極的には正しいとする認識の中では勝利する,という考えを導く.悩める奉仕者と神の代理としてのイエスは,単純な楽観論と悲観論の両方を超越する.ニーバーは,キリスト教の神を人間の不正で苦しみ,世俗の罪を自ら受け止める神と見なす.そして,歴史の抱える矛盾は歴史の中では解決されず,永遠や神の段階で解決される事になる,とする.ただ,歴史の中にある人間が自らの罪を十分に意識出来るようにするために,神の恵みは歴史の中でも表されるようになっている.メシア待望論のイエスの解釈は,二つの側面を持つ.第一は,歴史の中で正しいとされた者でも最後の審判では正しいとは限らないという事である.第二は,歴史に対する神の支配は,悪に対する神の勝利が悪者を打破する事ではなく,悪を神が引き取る事によって行われるという事である.キリスト教信仰では,キリストにおける神の開示は,神が人間に話した最後の言葉と見なされている.贖罪という啓示は,超越的な神の恵みを現していて,神の最後の言葉である.このことから,次の三つのことが出て来る.第一に,神がこの言葉を話す時,これまでは不完全であった神についての知識が完全なものになる.歴史の現実の基盤は永遠の中になければならない.この点で,歴史は意味を持つことになるが,その意味は歴史自体を超えたところを指し示す.第二に,啓示の言葉は歴史が抱える曖昧さや矛盾を明らかにする.この点で,歴史は意味を持つが,その意味が不明になると言う脅威に晒されていることでもある.第三に,神の言葉は,人生の意味に関する人間の過った解釈を正すことになる.その点で,啓示の言葉は,人間が作り出して来た文化と対立することがあり,賢いと見なされていた人間には愚かしい言葉として響くことがある.愚かしく響いても,それを謙虚に受け入れれば,人生を十分に説明した言葉になり,人間の真の知恵となる.その時は,啓示は人間の文化や知識と対立しなくなる.

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