Christianity and Freedom of Jiyu Gakuen in 1921-1930s (2) Motoko and Yoshikazu Hani: Their Publishing Business and Christianity

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  • 自由学園草創期におけるキリスト教と「自由」問題 (2) 羽仁もと子、吉一の出版事業とキリスト教との関わり
  • ジユウ ガクエン ソウソウキ ニ オケル キリストキョウ ト 「 ジユウ 」 モンダイ(2)ハニ モト コ 、 キチ イチ ノ シュッパン ジギョウ ト キリストキョウ ト ノ カカワリ

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松岡もと子(1873–1957)と羽仁吉一(1880–1955)は、それぞれの青年期にキリスト教と出会っていた。もと子は1897年頃、吉一は1900年に報知新聞に入社した。1901年に二人は結婚、退社し、1903年に内外出版協会からの家庭雑誌発行を請け負う形で雑誌『家庭之友』を刊行する。羽仁夫妻は「新しい」家庭建設の問題意識を直接に反映させた雑誌づくりを企図した。『家庭之友』には当時の羽仁夫妻の交友関係が色濃く反映しており、ユニテリアン、婦人矯風会の「母の会」などの先進的な取り組みや知見が多く取り入れられている。 羽仁夫妻は『家庭之友』編集の仕事のほかに、自分たちで『家庭女学講義』を刊行準備していたが、その最中の1906 年3月、夫妻は二女凉子を急性肺炎のために失う。夫妻は愛児の死に直面して信仰を深め、自らの人生における事業の目的を「天国を得るため」と言明するにいたる。彼らの信仰の深まりはその内面生活にとどまらず、この世界に生を受けた者が「何の為めに働く乎」を問い直し、「天国を得んとして」独立して生きる「行動」へと、夫妻をうながした。羽仁夫妻は内外出版協会やその他の仕事から退き、独立して、自宅を発行所として雑誌『婦人之友』を創刊する(1908年)。信仰と事業の拠点を自らの家庭に据えての再出発であった。 『婦人之友』編集および営業上の「大刷新」(1911年)を経て、羽仁夫妻の雑誌は徐々に発行部数を増やし、1913年に羽仁夫妻は社屋・自宅を雑司ヶ谷上り屋敷に新築する。ここを拠点に、婦人之友社は出版事業にとどまらない宗教的・文化的活動を展開した。そのひとつに、富士見町教会牧師の植村正久指導による「礼拝」があった。羽仁夫妻は出版を中心とする自らの事業について、「全事業が凡て基督の御名の尊崇められんがため」と捉え、植村正久はこの「礼拝」が将来的にキリスト教会へと発展することを願っていたという。 1919年頃、羽仁夫妻は植村に「自由学園設立の念願」を打ち明け、植村は驚きつつも二人の教育事業は彼らの伝道であると受けとめ、これを支援した。

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