鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗

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タイトル別名
  • The image of the emperor during the Kamakura period
  • カマクラ ジダイ ニ オケル テンノウゾウ ト ショウグン ・ トクソウ
  • The element of shoguns and their tokuso regents

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抄録

治承・寿永の内乱の偶然の産物として、前例のない武家政権が関東に成立した鎌倉時代において、天皇と武家の関係をどのように考えるのかは中世国家論の焦点であったが、鎌倉時代人の《現代史》認識においても難問であったため、鎌倉時代には様々な天皇像・歴史叙述が生み出されていた。本稿では、そうした天皇像の語りが、政治状況と交錯しながら、どのように変化してきたのかを論じた。現実に機能した天皇像・歴史像のもとでどのように「史料」が生成し、それらを後世の歴史家がどのように読みといたのか、複層的に議論を進める。<br>  鎌倉時代は三度の皇統断絶を経て、天皇像の危機的な状況が生まれる一方で、新たに登場した武家政権の位置づけをめぐって武家像(将軍像)を含みこんだかたちで、天皇像が新たに語られ、また、人びとも天皇像について自らと関連づけて語り始めていた。武家を組み込んだ天皇・藤原氏の像を歴史叙述として体系化したのは『愚管抄』の著者慈円であった。第一章では、慈円の言説が黒田俊雄の提唱した権門体制論と親和的な像であること、また、源頼朝が自らを諸国守護の権門として位置づけようとした構想とも無関係ではなかった。但し、慈円の国制像は必ずしも同時代的に共有されていた訳ではない。後鳥羽院は武芸をはじめとする諸芸能を好み、文武を包摂した君主像を追求していたし、幕府の側でも源実朝が後鳥羽院を模倣して「文」に基づく統治者意識を高めていた。前例のない「武」の権力をどのように位置づけるのか、様々な模索のもとで幕府像も揺れ動いた。<br>  こうした慈円の構想が現実味をもつのは、承久の乱後の摂家将軍・九条道家の時代であった。第二章では、「文武兼行」の摂家将軍の国制構想が、京・鎌倉に及ぼした影響を検討した。必ずしも九条家に対抗する国制像をもっていなかった鎌倉北条氏は、寛元・宝治・建長という十三世紀半ばの政変を経て、九条家を排除して、後嵯峨院政を支持し、親王将軍を擁立する。京都・公家とは異なる関東・武家が明確に成立し、公武関係が整序された。<br> 得宗(北条氏の家督)は天皇・公家を包摂する国制像をもたなかった。鎌倉後期の治天は幕府への依存を深めながら、武家を包摂する国制像をもたず、得宗(北条氏)が天皇・親王将軍をそれぞれ支えるという国制となった。北条氏は公家政権の徳治主義を模倣し、独自に「文」を担うとともに、裁判を担うことを自己の任務としたが、天皇・公家と《距離を置く》ことを志向した。そうした北条氏の姿勢ゆえにかえって、幕府の圧倒的な実力を背景にして、人びとの間で得宗をめぐって天皇像とも関連づけて様々な噂が語られるようになった。武家独自の政道観・式目観や得宗・天皇の観念融合の結果、武家が公家・天皇と併存するかたちで中世社会のなかに定着した。

収録刊行物

  • 史学雑誌

    史学雑誌 129 (10), 4-34, 2020

    公益財団法人 史学会

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