弘仁二年の征夷と徳丹城の造営

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タイトル別名
  • ヒロシ ジン ニネン ノ セイイ ト トクタンジョウ ノ ゾウエイ
  • The Emishi Conquest of Konin two years (弘仁二年の征夷) and Building of Tokutan Government office (徳丹城)

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説明

征夷将軍文室綿麻呂による弘仁二年(八一一)の征夷は、宝亀五年(七七四)よりはじまった足かけ三八年にもおよぶ長い〝征夷の時代〟を終焉に導いた蝦夷征討戦として一般に知られている。この事件をめぐっては、すでに数多くの研究者が論及しており、近年には熊田亮介氏による詳細な専論も出されているが、その具体的な史的経緯をめぐっては依然として様々な問題が残されている。小論では、近年次々と明らかになってきた考古学的諸知見に多くを学びつつ、歴史地理学的な考察なども援用しながら、あらためて『日本後紀』をはじめとする関係史料を私なりに読み直すことを通じて、弘仁二年の征夷の全容に迫りたい。また、そうした研究の過程で、この征夷が実は志波城の廃止・移転をめぐる問題ともきわめて深く関連していることに気づかされた。周知のように延暦二十二年(八〇三)に造営された志波城(盛岡市下太田・中太田・上鹿妻)は弘仁二年閏十二月に他所への移転が決定され、その結果旧位置より南南東方約一〇キロメートルの地に新たに造営されたのが徳丹城(矢巾町西徳田)である(両者の位置関係は図1参照)。よって弘仁二年の征夷という事件を、その前後の律令国家による対蝦夷政策の史的経脈との関わりにおいて理解すべく、志波城造営以降の北上盆地周辺地域における政治情勢の展開についてもできるかぎり具体的に論究してみたい。『日本後紀』の記載によれば、弘仁二年の末に志波城の廃止・移転が中央政府の政策として正式に決定されており、また近年鈴木拓也氏の研究によって翌弘仁三年(八一二)の早い時期には徳丹城(=新志波城)がほぼ完成していた可能性が指摘されている。志波城が廃止・移転され徳丹城が成立するまでの史的過程と弘仁二年の征夷とは、いったいどのように関連し合っていたのであろうか。小論では主に以上のような問題についての現時点における私なりの仮説を提示する。

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