魏晉洛陽都城制度攷

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  • 外村 中
    Institut für Kulturwissenschaften Ost und Südasiens, Sinologie, Universität Würzburg

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タイトル別名
  • The Layout of Luoyang, the Capital City in 3rd Century CE China
  • ギシンラクヨウ トジョウ セイドコウ

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抄録

小稿は,従来の通説では,宋の裴松之の『三國志』注にもとづき,魏晉の洛陽は後漢を継承したものに過ぎないとされてきたが,そうではなかったらしいことを文献学的に明らかにし,新たな復元概念図を提示するものである。あわせて近年の考古学的解釈における問題点を指摘する。魏晉の洛陽は,とくにその主要部の制度は,後漢の洛陽とも隋唐の長安とも大きく異なる構造を採っていたらしい。一方,魏晉の洛陽の制度は,魏晉南北朝の帝都の制度の規範となっていたらしく,南朝の建康,北魏の洛陽に大いに継承されている。したがって,魏晉の洛陽は,制度的に見て魏晉南北朝を最も代表する帝都であったといってよく,この点により中国の都城制度史上極めて重要な都市のひとつにあげられるべき都市である。魏晉の洛陽が後漢の洛陽および隋唐の長安と大きく異なっていた点として,次があげられる。(1)魏晉の宮城の最主要部は,太極殿が建てられた南宮であった。(2)太極殿が西に,朝堂が東に配置されていた。(3)太極殿東西二堂形式が採られていた。(4)王朝を最も代表する園林として,天淵池と景陽山を主要な構成要素とする華林園が宮城主要部(南宮と北宮)の北にあった。(5)宮城主要部は都城の中ほどに位置し,宮城主要部を取り囲むように都城があり,さらに都域を取り囲むように外郭があった。すなわち,宮城と都城と外郭が偏りのより少ない三重構造を採っていた。なお,以上の点のいずれもが曹魏の明帝による造成に関わるものであることは注目に値しよう。また,華林園を除けば,魏晉の宮城の規模は,大方北魏と同じで東西一里半,南北三里ほどあったらしい。都城の規模は,魏晉の頃には「九六」ではなく東壁の張り出し部をー里と見なし,東西七里,南北九里と考えられていたらしい。魏晉の外郭の規模は,外郭壁については分からないが,外郭内居住区で見た場合,大方洛水以北の北魏に同じく東西二十里,南北十五里ほどあったらしい。

収録刊行物

  • 人文學報

    人文學報 99 1-29, 2010-12

    京都大學人文科學研究所

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