<論説>鉱山稼行とその周辺 : 若狭、三光銅山の場合

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タイトル別名
  • <Articles>Several Problems about the Mine Industry : A Case Study of Sanko 三光 Copper Mine in Wakasa 若狭
  • 鉱山稼行とその周辺--若狭,三光銅山の場合
  • コウザンカコウ ト ソノ シュウヘン ワカサ , サンコウ ドウザン ノ バアイ

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抄録

若狭の三光銅山は近世後期産銅の減少した時代に開発され、しかも諸国銅山中で屈指の産銅があった珍らしい鉱山の例である。はじめ小浜藩が直営しかなりの産銅を見たにかかわらず休山した。そのおもな原因に周辺の村落に与えた煙害・銅水害の問題があった。幕府は明和三(一七六七) 年銅座を再興し銅についてすべての統制を強化し、産銅減少の状勢下にあって輸出御用銅の確保に努めた。御用銅は産銅高の約三分の二、ときにそれ以上の割合を占めて、主力銅山の秋田・南部・別子立川の産銅が充当された。御用銅以外の余銅即ち地売銅は、年々の産銅状況や鋳銭用など臨時の大量需要ある場合など、相場が高騰した。銅山山元の銅生産費は著しく膨張し、幕府は御用銅買上に手当銀を増したりしたが、地売銅買上代価との較差は、しばしば顕著となり、地売銅の増産を計らねばならなかった。最大の銅山業者である住友(泉屋) は稼行山の伊予別子銅山の産銅は御用銅に充用されて経営は順調でなく、藩営時代かなりの実績を示した三光銅山の再開発に熱意を示した。小浜藩は、かつての休山が公害問題にかかわった事情から一応は再開発に慎重な態度をとりながら、藩財政の窮迫化につれ救済策を銅山開発と住友からの金融通に期待したのである。再開発に当たり公害に対し住友の対策は、明治以前において殆ど実施し得る限りの方法を示しており、開発とともにそれらが実行に移されることになる。三光銅山は地売方の銅山中で屈指の産銅を見たが、経営内容は悪化していった。鉱石の性状から尻銅製錬が大部分で精銅に吹くとき吹減が大きく、銅座の買上値段が安いこと、煙害防止のため夏秋の焼鉱を休止し製錬上の効率をいちじるしく低くしたことなど、その主な原因である。かくて経営は住友本家を離れてその支配人が引請け、支配人の死とともに小浜藩の直営に移った。しかし鉱山事務や採鉱、製錬は殆ど住友経営以来の組織が、そのまま引継がれた。明治になると産銅状況はいよいよ悪くなり、政治体制の改変するとともに休山となった。

収録刊行物

  • 史林

    史林 57 (1), 1-67, 1974-01-01

    史学研究会 (京都大学文学部内)

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