<論説>鎮西地頭の成敗権

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タイトル別名
  • <Articles>Nomination of CHinzeijito 鎮西地頭
  • 鎮西地頭の成敗権
  • チンゼイ ジトウ ノ セイバイケン

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抄録

文治元年一一月の国地頭制の発足にともない、源頼朝は天野遠景を鎮西九州の国地頭として現地へ派遣し、遠景を通して、この地における本領安堵地頭の設置をおしすすめた。これは国地頭制下において頼朝に体現されていた諸国諸庄地頭成敗権の九州における適用である。同じ権限にもとづいて文治二年はじめに頼朝は島津庄下司職惟宗忠久の地位を鎌倉補任の地頭職にきりかえている。文治二年六月になると畿内近国三七ケ国で国地頭制を停廃するが、このとき鎮西は東国とともに国地頭停廃地域から除外されて諸国諸庄地頭成敗権は九州地頭成敗権として存続することになった。ただし、この九州地頭成敗権も無限定なものではなく、文治二年以降国衙の在庁所職の成敗(補任) 権についてはこれを停止し、国地頭の名称もとどめて、九州でもまた独自の形態をとって国務不介入政策がつらぬかれた。建久年間をすぎると幕府の九州における本領安堵地頭政策は後退し、根本領主層は惣地頭のもとで地頭代職・名主職などに補任されるようになり、小地頭制への変質が進行した。

収録刊行物

  • 史林

    史林 61 (1), 1-39, 1978-01-01

    史学研究会 (京都大学文学部内)

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