<論説>征韓論政変の政治過程

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タイトル別名
  • <Articles>Process of the Political Change about Debates on the Expedition to Korea
  • 征韓論政変の政治過程
  • セイカンロン セイヘン ノ セイジ カテイ

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説明

本稿は、最近研究が活発化している征韓論政変について、その実態と歴史的意義の解明を試みるものである。 留守政府期において、急速な近代化を目饗し野放図に開化政策を拡大しようとする諸省と、それを一定の枠内に抑えようとする大蔵省(これは木戸派が支配していた) との間で、激しい対立が生じた。さらに明治五年後半になると、木戸派を除く政府の大勢は対外強硬論に傾き、台湾への出兵を主張するようになり、これを阻止しようとする木戸派大蔵省と厳しく対立した。大蔵省は征台の阻止には成功した。しかし明治六年五月の政府改革で江藤新平らにより木戸派の大蔵省支配が打倒されると、対外強硬論への政府内の歯止めは失われてしまう。こうした中で朝鮮より広津報告が到着すると、留守政府の対外強硬志向は朝鮮に向けて噴出し、八月一七日、戦争につながる可能性の極めて高い、西郷隆盛の朝鮮への使節派遣が「内決」された。 一方外遊より帰国してきた岩倉使節団のメンバー、岩倉具視・大久保利通・木戸孝允らは、江藤ら留守政府に反発し、政府改造を期した。また岩倉ら使節団派は、内治優先の立場より戦争は避けるべきと考えており、西郷の派遣に反対であった。このように権力闘争・朝鮮政策の両次元で使節団派と留守政府は対立した。しかし一〇月一一日西郷が自らの派遣の正式決定について強硬な意向を表明すると、逆に、朝鮮問題での政府の分裂を避けようとする妥協的な動きが、両者の間に生まれることになる。しかし一四、一五日閣議で西郷の固執により妥協は成立せず、両者は朝鮮政策について決定的に対立することになった。そして結局、三条実美の決断で西郷遣使が決定した。 敗北した使節団派は、閣議直後より逆転に向けて動き三条に圧力をかけた。このため一八日、三条は発病した。一九日、留守政府派を中心とする閣議は、岩倉の太政大臣代理就任と朝鮮問題再評議のための閣議開催を決定する。しかし天皇側近に対する工作により秘密のうちに天皇の支持をとりつけていた、岩倉らは、再評議を行わずこのまま先の閣議決定に反対する上奏を行うことを決めた。これに対し留守政府派は二二日岩倉を訪れ詰問するが、彼の意見を変えることはできなかった。二二日岩倉は上奏を行い、翌日裁可、使節団派は勝利をしめたのである。明治五年後半以降の留守政府内の対外強硬論の高まりは、開化政策の強行により生じた社会各層の不満をそらそうとする意図をもつものであり、明治四年以降の開化への競合の帰結と言えるものであった。 明治六年の一連の政変の結果、政府の中枢は大久保派がしめることになったが、これは明治二年以降続いていた行政における木戸派の優位の終焉、木戸派から大久保派への主導権の移行を示すものであった。

収録刊行物

  • 史林

    史林 76 (5), 673-709, 1993-09-01

    史学研究会 (京都大学文学部内)

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