<論説>六波羅における裁許と評定

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タイトル別名
  • <Articles>A Study of Saikyo and Hyoujou Rendered by the Tandai at Rokuhara
  • 六波羅における裁許と評定
  • ロクハラ ニ オケル サイキョ ト ヒョウジョウ

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説明

鎌倉幕府が西国支配を進めていくうえで、六波羅の訴訟裁断機関としての側面が重要な比重を占めたことに疑いはないが、六波羅の訴訟制度の実態や鎌倉幕府内における訴訟機関としての位置づけについてはいまだに多くの問題を残しており、その基礎的史料たるべき六波羅裁許状を正面から取りあげた研究も皆無なのが現状である。そこで本稿では、六波羅裁許状の検討を足がかりに、裁許と評定をはじめとする六波羅の訴訟手続きとその確立過程をできうる限り具体的に復元したうえで、この問題に論及する。第一章では、六波羅裁許状の様式的考察を通じ、六波羅の制度的な整備が訴訟制度という角度から重点的に進められたこと、六波羅における訴訟手続きは非「相論」と「相論」とを包含するものへと徐々に確立したこと、裁許の方式が建治三年(一二七七) を画期として「問注記」型から「評定事書」型へと変容したことなどについて論ずる。第二章では、六波羅裁許状の日付に分析を加え、永仁四年(一二九六) 以降の六波羅における評定には少なくとも引付評定、式評定があり、それぞれには式日が設定されていたこと、六波羅における裁許は原則として引付評定で決定されたこと、その裁許状がその評定の日付をもって発給されたことなどを明らかにする。第三章では、六波羅注進状について検討し、その注進手続きを明らかにしたうえで、関東と六波羅いずれにおいて裁許を下すべきかという判断は六波羅と関東双方の評定の判断に依拠していたこと、西国に関する案件が関東で裁許される場合に六波羅からの注進を介在させるという原則が確立することや、その制度が「問注記」型から「評定事書」型へと移行することにより、建治三年(一二七七) を経て六波羅が鎌倉幕府の訴訟機関としての質的な転換を遂げることなどについて論ずる。むすびでは、今後の課題と展望を提示する。鎌倉幕府における訴訟制度の確立過程は、関東の訴訟制度が各訴訟機関に徐々に移入され、それぞれが独自の訴訟裁断機関として確立する動きと、関東への注進制度の整備を通じ、各訴訟機関が系列化する動きとを基軸とした、鎌倉幕府の各訴訟機関の体系化という一連の同時進行的な動きとして理解できることなどを指摘する。院、朝廷、鎌倉幕府など諸権門の訴訟制度を相互の連関のなかでとらえた研究がさほど多くはない現状もある。今後、諸権門の訴訟制度を相互の連関のなかでとらえたうえで、日本中世国家の諸論点をめぐる大局的な考究を進める必要がある。

収録刊行物

  • 史林

    史林 85 (6), 771-803, 2002-11-01

    史学研究会 (京都大学文学部内)

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