<論説>崇寧五年正月の政変 : 対遼交渉をめぐる徽宗と蔡京の対立

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  • 藤本 猛
    京都大学人文科学研究所 非常勤研究員

書誌事項

タイトル別名
  • <Articles>The Political Upheaval of the First Month of the Fifth Year of the Chongning Era : The Confrontation of Huizong and Cai Jing over Negotiations with Liao
  • 崇寧五年正月の政変--対遼交渉をめぐる徽宗と蔡京の対立
  • スウネイ5ネン ショウガツ ノ セイヘン タイリョウコウショウ オ メグル キソウ ト サイケイ ノ タイリツ

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抄録

これまで政治的主体性が乏しいとされてきた徽宗だが、即位初年の政治状況からは通説とは違う姿が浮かび上がる。徽宗朝初年に中道路線をとったとされる向太后は、逆に新法派の蔡京と強く結んでおり、むしろその死後中道路線を選んだのは親政を始めた徽宗だった。しかし宰相に迎えた曽布の態度に業を煮やし、徽宗は新法路線と蔡京を選び直す。これが蔡京の第一次当国だが、対西夏戦略に介入してきた遼への対応をめぐって両者の意見が分かれた。土地返還を飲んで無難な宥和策をとるよう指示した徽宗に反し、蔡京は故意に遼との交渉を決裂させようとした。こうして宋遼関係が緊張する中発生したのが崇寧五年正月の政変で、蔡京は罷免された。次いで宰相とされた趙挺之は徽宗の宥和策を堅持し、遼との交渉は無事妥結する。これまでこの政変は暗愚な徽宗が単に天災におびえて起こしたものとされてきたが、実はその背景に外交政策をめぐる争いが存在していたのだった。

収録刊行物

  • 史林

    史林 92 (6), 985-1016, 2009-11-30

    史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)

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