<論説>天龍川下流域における松尾神社領池田荘の歴史地理学的研究

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タイトル別名
  • <Articles>Historico-geographical Research on the Ikeda 池田 Manor under the Rule of the Matsuo 松尾 Shrine in the lower Basin of the Tenryu 天龍 River
  • 天竜川下流域における松尾神社領池田荘の歴史地理学的研究
  • テンリュウ カワシモ リュウイキ ニ オケル マツオ ジンジャリョウ イケダソウ ノ レキシ チリガクテキ ケンキュウ

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抄録

遠江国松尾神社領池田荘に関する嘉応三年の立券状は、散居景観の起源を知るうえできわめて重要なものである。このことはすでに故藤田元春博士によって指摘された。ここは天龍川下流の乱流地域に属し、しばしばはんらんを受けたため、居住の連続性を立証することは容易でなく、また関係史料もほとんど消失して、過去の景観を復原することは非常にむずかしい。われわれは最近の数年間文書の検討にとどまらず、空中写具の解読、種々なる計測を含むフィールド・サーヴェーを続けて、荘域の推定、地形環境と居住景観の復原に努めてきた。ここにひとまず従来の成果をまとめて報告し、今後の研究の発展に資したいと思う。この池田荘域は、天龍川の沖積作用がいまなお進行中の平野を占め、そこは北高南低、西高東低の沈降性ブロックをなし、河川が乱流して網状の流跡が著しく、本流の変化もしはしは行なわれたところてある。そういうなかに、旧中洲・自然堤防群が微高地をなしている。現在の大甕(おおみか)神社あたりを本拠地とした池田荘は、かかる微高地をまず開発の対象となし、したいに流跡やバックマーシュのごとき低地に進出して行ったものと思われる。遠隔地荘園の領有体制において、『在家』としてその末端組織を支えたのは、かかる微高地を疎状に占居した社会集団のリーダー格のものである。しかしそれは、最大といえども一反の屋敷地をもつにとどまり、東北の辺境のごとく、支配力が強くて多数をその下に隷属させたタイプとは考えられない。池田壮では在家を中心に疎状に集まり、小村(ワイラー)もしくは小規模な疎集村形態(ロツケレス・ハウヘンドルフ)をとり、数戸のほぼ同族から成る集団が、微高地を占居して集落の単位を構成していたものと思われる。これが畿内・その周辺と辺境との漸移地帯における在家集落の一つの特色ではなかろうか。

収録刊行物

  • 史林

    史林 49 (2), 203-233, 1966-03-01

    史学研究会 (京都大学文学部内)

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