法政大学大陸部 : その設置から廃止まで

書誌事項

タイトル別名
  • Hosei University Tairiku-bu (Continental department) : From establishment to abolishment
  • ホウセイ ダイガク タイリクブ : ソノ セッチ カラ ハイシ マデ

この論文をさがす

抄録

査読有 引用には出典を明記してください。

本稿は、法政大学大陸部の設置から廃止に至るまでの経緯及び同学科の教育実態を明らかにすることを目的としている。大陸部は日中戦争勃発後の1939年に設置された学科(専門部)で、同学科の部長には思想家の大川周明が就任し、いわゆる「興亜教育」が行われていた。こうした興亜系の学科は他の大学にも見られるもので、戦時下の大学と国策との関わりを検討するうえで欠かすことができないテーマであるが、法政大学の場合、その沿革史において、大陸部についてあまり触れられていなかった。本稿では、他大学の事例も参照しながら、可能な限り、大陸部の全体像を描くことに努めた。まず、大陸部の設置経緯としては、大川の日記をもとに事実関係を整理したうえで、右派及び帝国議会における「大陸科」設置をめぐる議論を紹介した。また、大陸部設置の前史として、満州事変から日中戦争期において、法政大学の教員及び学生が中国大陸にどのような視線を向けていたのか、学内誌(『法政大学報』)や大学新聞(『法政大学新聞』)をもとに検証し、大陸部の萌芽として「支那語科」の存在を見出すとともに、大陸部設置前後の時期における、法政大学内の興亜系団体・研究会の設立状況を明らかにした。大陸部の教育内容については、部長の大川のもと、どのような教員が集まり、どのようなカリキュラムが組まれていたのか検討し、教員については、大川と縁が深い、東亜経済調査局・拓殖大学・陸軍という、3つの組織の関係者・出身者に分類されること、カリキュラムについては、大川の意向を反映し、「中国語主義」と評されるものであったことが明らかになった。最後に、大陸部が1944年度に募集停止となった背景を探り、太平洋戦争下に高等教育機関が実施を迫られた各種「非常措置」をめぐって、法政大学がどのように対処したのか確認した後、法政大学専門部の中で、大陸部のみが廃止となった理由について考察した。

収録刊行物

詳細情報 詳細情報について

問題の指摘

ページトップへ