散らばりと取り集め : ハイデッガーと無の思惟

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タイトル別名
  • Die Streuung und die Versammlung : Heidegger und das Denken vom Nichts

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抄録

『ブレーメン講演』「物」で、ハイデッガーは瓶を考察し、瓶に宿る世界を四方界という言葉で表現する。四方界は、様々な様相をもって露わになる諸世界がそこへと取り集められるところのものであり、諸世界を形而上学的に一元化するのとは全く別の仕方での有るもの全体の取り集めである。他方『哲学入門』で論じられているのは、現存在の撒き散らしと散らばりである。現存在の根本体制に属する存在理解には超越が含まれており、この超越に観取される現存在の存在規定としての自己性と世界内存在の内的規定としての委任性とが交錯するところ、そこに提示されるのが撒き散らしと散らばりという考え方である。散らばりには「無いこと」が含まれており、その「無いこと」こそ他者たちと共に有ること、眼前の物のもとに有ること、自己で有ることの三者の等根源性が成り立つところである。そこに見出されるのは集約としての「無いこと」であり、それが取り集めを可能にする。無には存在を脅かすということと存在の充実を準備するということの二つの働き方があり、前者が後者に転換することによって現存在に固有の根源的統一が引き起こされる。それは物における統一が成就されることであり、その物は世界そのものの生きた焦点となる。そして、近代科学の知は散らばりとしての「無いこと」によって可能となるものであり、ハイデッガーはそこから集-立態(Ge-stell)という現代技術の本質の危険を読み取った。しかし、ハイ・テクノロジーが出現し、技術と人間の関係が大きく変わった今日からみると、技術の危険はむしろ集-立態において用立てられなかったものにある。

収録刊行物

  • 哲學研究

    哲學研究 602 [1]-[19], 2018-01-30

    京都哲学会 (京都大学大学院文学研究科内)

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