5.ヒト用医薬品の環境影響評価:規制当局と医薬品業界の動向

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抄録

分析技術の進歩に伴い、極微量の医薬品が環境中で検出されるようになった。ただし、ほとんどの場合、検出濃度は人間に対して何らかの薬理作用を発揮する濃度よりもかなり低い。例えば、ヒト用医薬品の環境影響評価(Environmental Risk Assessment: ERA)に関するEMAのガイドライン1)において実験室での試験(Phase 2)のアクションリミットとなる環境中予測濃度(Predicted Environmental Concentration: PEC)は0.01 µg/Lであるが、この濃度はLC-MS/MS法を用いた医薬品の血漿中薬物濃度測定法の検出限界値として一般的に用いられている1 ng/mLの100分の1であり、東京ドームの容積(124万m32)の水に小さじ(5 g)2杯強を加えた程度に過ぎない。つまり、1匹のイヌ(10 kg)に1000 mg/kgの用量で薬物を投与した後、全く代謝されずに糞尿中に排泄されると仮定した場合に、そのイヌ1匹が東京ドーム一杯の水の中に排泄した時の薬物濃度とほぼ等しい。分子量500の化合物では0.01 µg/Lは20 pMとなり、もし医薬品のスクリーニングにおいてこのような低濃度で強力な薬理活性を有する化合物が見つかれば合成担当者が狂喜乱舞するレベルである。ちなみにICH-M7ガイドラインでは変異原性不純物の毒性学的懸念の閾値(threshold of toxicological concern: TTC, 生涯曝露における理論上の過剰発がんリスクが10万分の1となる閾値)に基づく許容摂取量は1.5 µg/person/day(体重50 kgだと30 ng/kg/day)となっているが、仮に水中薬物の魚への曝露ルートが経口だけであり生物蓄積性がないと仮定すると、水中に0.01 µg/Lの濃度で含まれる薬物の摂取量がTTCの30 ng/kg/dayに達するためには、経口吸収率が100%だとしても1 kgの魚では1日あたり3 Lの水を飲まないといけない計算となる(50 kgのヒトでは150 L/day)。ちなみに飲水量は淡水魚ではコイで0.72 mL/kg/day、ナマズで5.04 mL/kg/day、海水魚ではウナギで24.00 mL/kg/day、カサゴで186.24 mL/kg/dayとされていることから3)、魚にとっての0.01 µg/Lという濃度は、ヒトの遺伝毒性のTTCよりも約16~4000倍も低い曝露レベルに相当する。つまり、EMAのERAガイドラインにおける0.01 µg/LというPECのアクションリミットはヒトにおける遺伝毒性物質の発がんリスクの閾値と比較しても保守的な曝露レベルと言えるかもしれない。<br>  現時点では上記のような極微量のヒト用医薬品による環境への影響が明確に実証された例はないが、長期に渡って環境中に存在する場合、環境に対してどのような影響を及ぼすのかは不明である。仮に環境中の極微量医薬品が何らかの影響を与える可能性を想定した場合、既存のリスク・ベネフィットバランスとは異なるコンセプトを導入する必要がある。これまでのヒト用医薬品における個人レベルの古典的なリスク・ベネフィットバランスというのは投薬患者という同じ土俵の上で安全性と有効性を天秤にかけるという考え方であったが、医薬品環境影響評価におけるリスク・ベネフィットバランス評価では環境に対するネガティブインパクト(リスク)に対して、患者における治療効果やそれによる医療費削減等の経済効果(ベネフィット)という全く異なる次元の事象間におけるバランス評価(いわゆるcomparing apples to oranges)が求められる。例えば、ある医薬品は局所的に極めて高い濃度で環境中に放出されると魚に著しい悪影響を与えるが、患者に対しては高い治療効果を有し、既存の治療法と比較して経済性にも優れるというケースを想定すると、治療の恩恵を減ずることなく、環境への曝露を最小限に抑制することによって、患者や環境にとって最も良好なバランスを達成するための知恵が求められる。<br>  製薬会社からの視線で見ると、環境への影響を科学的かつ透明性の高い方法で評価し、環境影響リスクが少ないことを客観的データで示す行為を通じて、自社医薬品のベネフィットの相対的ポジションを上げ、apples to oranges比較において自社医薬品の社会的存在意義を明示する企業努力が求められる。<br>  本稿では、最初に医薬品を含む化学物質全般の環境影響評価に関する歴史的な流れを解説し、次にヒト用医薬品の環境影響評価に関する最近のトピックスとして、規制当局や医薬品業界の最新動向を紹介する。いずれの内容もインターネットで一般公開されている情報を参照したものであり、アドレスを最後にまとめて記載した。情報公開はリスクコミュニケーションにおいて必要不可欠な要素の一つであるが、規制当局等の情報発信源がそれを遵守し、忠実に実践していることを執筆にあたって情報収集した際に改めて実感した次第である。

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詳細情報 詳細情報について

  • CRID
    1390292561177609472
  • DOI
    10.50971/tanigaku.2017.19_31
  • ISSN
    24365114
  • 本文言語コード
    ja
  • データソース種別
    • JaLC
  • 抄録ライセンスフラグ
    使用可

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