<論説>文政~弘化期の朝廷における新清和院の地位 --仁孝天皇との関係を中心に--

書誌事項

タイトル別名
  • <Articles>The Status of Shinseiwain in the Imperial Court During the Bunsei-Kōka Era, Focusing on the Relationship with the Emperor Ninkō
  • 文政~弘化期の朝廷における新清和院の地位 : 仁孝天皇との関係を中心に
  • ブンセイ~コウカキ ノ チョウテイ ニ オケル シン セイ ワイン ノ チイ : ジン コウ テンノウ ト ノ カンケイ オ チュウシン ニ

この論文をさがす

抄録

本稿は、文政~弘化期の朝廷における新清和院の地位について、当該期の皇位継承と仁孝天皇の母子関係をめぐる問題から検討したものである。仁孝生母である典侍勧修寺婧子は文化期の皇嗣治定時に母の地位を否定され、新清和院(中宮欣子)が「実母」として扱われることが定められていた。文政期の朝廷では、当初は新清和院の所生皇子である高貴宮、次いで、仁孝正配の所生皇子への皇位継承が目指されたが皇子らの相次ぐ早逝により実現せず、天保期に典侍正親町雅子所生の熙宮が皇嗣に冊立される。天保末期に仁孝は譲位の意向を示すが、譲位に伴う新清和院の居所の移動を不孝とする朝廷上層部によって譲位が事実上停止する状況が生じた。その背景には、光格上皇の死去後に、仁孝が新清和院の意向を盾にすることで、宝暦期以来の天皇の母子関係・外戚待遇の原則を覆す形で、自身の生母・外戚の待遇改善を実現させたことの影響が想定される。後桃園天皇の皇女である新清和院は、中宮から皇太后へ転任する近世には例をみない昇進を果たした存在であり、十九世紀前半の天皇家内において、前帝の意思を超越しうる影響力を持った点で、近世の他の女院とは峻別される地位を有した存在であった。

収録刊行物

  • 史林

    史林 105 (2), 294-332, 2022-03-31

    史学研究会 (京都大学大学院文学研究科内)

関連プロジェクト

もっと見る

詳細情報 詳細情報について

問題の指摘

ページトップへ