<論文>「工芸」の岐路 --高村豊周・今和次郎・柳宗悦

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書誌事項

タイトル別名
  • <Articles>Crossroads in the History of Modern Japanese “Kogei”: Takamura Toyochika, Kon Wajiro and Yanagi Muneyoshi
  • 「工芸」の岐路 : 高村豊周・今和次郎・柳宗悦
  • 「 コウゲイ 」 ノ キロ : タカムラ ホウシュウ ・ イマ ワ ジロウ ・ ヤナギ ムネヨシ

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説明

1920年代は工芸の領域においてかつてないような活況が生まれ,帝展に第四部(工芸部)を設置する運動と連動して工芸の「美術化」と呼ぶべき動きが顕著になる一方で,帝國工藝会と商工省を中心とする「産業工芸」の振興,すなわち工芸の「産業化」を目指す動きも活発化した。また京都における民芸運動の始まりもこの時期に重なっているが,そうした実践的な活動のみでなく,工芸をめぐる議論もこの時期に最も盛んに行われた。もともと明治政府が殖産興業のために便宜的に設けた領域である「工芸」が,1920年代後半に至って積極的に語るべき対象になり,「美術」に対する「工芸」の位置,「芸術」か「産業」か,「鑑賞」か「実用」か,といった工芸のアイデンティティをめぐる問題が浮かび上がったのである。そのなかで柳宗悦の『工藝の道』(1928年)と並ぶ重要な工芸論を展開したのが高村豊周と今和次郎である。三人は「工芸」の領域における「観る者」,「作る者」,「使う者」という三つの立場をめぐってそれぞれ異なる考えを展開した。金工の個人作家である高村は「作る者」としての立場から「実用」よりも「美」を重視し,絵画や彫刻と同じく鑑賞優先の「純粋工芸」を理想として掲げた。一方,工芸図案を学んだ今和次郎は,民家研究やバラック建築をめぐる活動を経て「考現学」を確立する過程で「作る者」よりも「観る者」の立場を選択し,「作られたるものは何んであっても鑑賞せられ,それをば讃美しなければなるまい」という考えから高村らが掲げる理想の限界を指摘した。これに対して「下手もの」を「観る」ことから出発した民芸運動は,「観る者」と「作る者」と「使う者」が一体となった工芸運動を目指した。それはウィーンをはじめとする近代デザイン運動の舞台となった都市と同じように,文化的な伝統と急速な近代化が共存する京都においてこそ可能であったと考えられる。

収録刊行物

  • 人文學報

    人文學報 120 73-93, 2023-02-28

    京都大學人文科學研究所

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