書誌事項
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- Christian Evangelists in Ancient Egypt : Outstanding Saints of Coptic Christianity
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抄録
最近、イスラム教徒との対立が日本でもよく報道されるコプト教は、エジプトの古代キリスト教から発する1派である。その信徒はエジプト総人口の1割ほどであるが、『新約聖書』の「使徒行伝」の時代から存続してきたとされる。「コプト」(Copt)とは、「エジプト人」という意のギリシア語に由来するが、7世紀のアラブ人によるエジプト征服後は、エジプトのキリスト教徒を指すようになった。かれらは『新約聖書』の「マタイによる福音書」の記述に依拠した<聖家族のエジプト逃亡伝承〉や、聖マルコのアレクサンドリア伝道と殉教も史実として受容している。後者はとくに、アレクサンドリアにあったとされる聖マルコの聖遺体を保管しているという伝承がヴェネツィアには伝わるものの、西欧では一般に疑問視されているようだ。コプト教でとくに崇拝されている聖人は、聖アントニウスと聖パウロスである。前者はとりわけ、「修道制の父」と呼ばれる、西欧でも評価が高い聖人で、エジプト最古の修道院もかれに由来している。「テーベのパウロス」とも呼ばれる後者もまた、前者とおなじく、砂漢に隠棲し、悪魔の誘惑とたたかいつづけたことで有名である。このふたりの聖人の隠棲生活は、エジプトでは現在もなお、人里離れた砂漠の修道院での模範とされている。いまは廃墟となっている修道院も少なからずあるが、その修道制文化は古代から継承されてきたといわれており、同時にコプト教独特の性質を特徴づけるものであって、西欧の修道院とはかなり異なっている。現代のコプト教は、エジプトではマイノリティであるが、ローマ帝国の属州であり、キリスト教が国教化された4世紀中葉以後は、マジョリティとして勢力を誇った時代であった。とくにユダヤ教徒やエジプト古来の神々の信仰者たちを迫害した歴史がある。なかでも、391年のアレクサンドリアのセラペウム破壊と、415年の新プラトン主義女性哲学者ヒュパティア殺害は、もっとも象徴的な事件とみなされうるものだ。とはいえ、619年のペルシアのローマ帝国侵入と占領、641年から868年のアラブ人のエジプト征服によって、エジプトはイスラム教徒の国になり、それ以来、コプト教徒はマイノリティになってしまった。もちろん、エジプトのコプト教とイスラム教の対立をめぐる諸問題は、現在の政治問題とともに非常に複雑ではあるが、解決されなければならない火急の事案であることはまちがいないだろう。
収録刊行物
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Semawy Menu 3 31-46, 2012-03-08
関西大学文化財保存修復研究拠点
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詳細情報 詳細情報について
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- CRID
- 1390297459900660352
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- NII書誌ID
- BB04028363
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- HANDLE
- 10112/0002000212
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- 本文言語コード
- ja
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- データソース種別
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- JaLC
- IRDB
- KAKEN