志波彦神社・鹽竈神社における氏子祭の変容と課題

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  • Changes in the Parishioner-led Festival and Associated Issues of Shiwahiko Shrine and Shiogama Shrine

抄録

<p>1.研究の背景と目的</p><p> 日本では,高齢化により氏子祭の継続が困難になっている.しかし,宮城県塩竈市に位置する志波彦神社・鹽竈神社の年3回行われる氏子祭は,それぞれ100人ほどの神輿の担ぎ手が集まるほか,市内だけでなく県外や海外からの観光客が多く訪れ,塩竈市の主要な行事となっている.そこで本研究では,志波彦神社・鹽竈神社における氏子祭がどのように変容しながら継続してきたのかを明らかにするとともに,今後も氏子祭を継続するうえでの課題を指摘することを目的とする.</p><p></p><p>2.氏子祭の概要</p><p> 志波彦神社・鹽竈神社の氏子祭は,3月の帆手まつり,4月の花まつり,7月のみなと祭の三祭とも,神輿が供奉団体を伴い塩竈市内を巡幸する「神輿渡御」が行われる.帆手まつりは,景気回復と火災の鎮圧を祈り1682年に始められた祭りで,祭事である神輿渡御のみ実施される.花まつりは,1778年に豊作祈願のために始められた祭りで,1985年から塩釜商工会議所青年部主催の「しおがま市民まつり」と同時開催され,本塩釜駅前には出店が並ぶほかイベントが実施される.また,みなと祭は,1948年に水産業関連団体の希望で海上安全祈願と観光誘致のために始められ,神輿の市内巡幸だけでなく,海上渡御,陸上パレードや花火などのイベントも実施されている.</p><p></p><p>3.氏子祭の変容と継続要因</p><p> 志波彦神社・鹽竈神社の氏子祭は,神輿渡御だけでなく商工会議所や水産関連団体が実施するイベント等と連携することで規模が拡大していた.一方,祭事である神輿渡御は,高度経済成長期以降,神輿の担ぎ手である輿丁の減少が問題になっていた.供奉団体が輿丁を確保し神輿渡御の継続を可能にした要因は以下の通りである.</p><p> 第一に,1956年に氏子青年会が形成され,本会が輿丁を募るようになったことが挙げられる.氏子青年会が形成される以前は,奉賛会という組織が輿丁を募り,神輿世話役である宮町が輿丁を抽選で決めていた.輿丁は,宮町居住者やその親戚に限定されていた.しかし,高度経済成長期以降,後継ぎの市外流出により宮町居住者や親戚で輿丁を確保することが困難になった.そこで,氏子青年会を組織し,町単位に捉われることなく広報活動をすることで,輿丁希望者の増加を実現した.</p><p> 第二に,神社への還御ルートが,1990年に七曲坂から表坂に変更されたことが挙げられる.七曲坂を使用していた際は,観客の立ち入りが制限されていたが,表坂を使用することによって観客の声援のなか202段の階段を登りきることが輿丁にとって忘れがたい経験となることから,輿丁経験者の参加が増加した. このように,志波彦神社・鹽竈神社の氏子祭は,塩竈市内の地域団体と連携を図ることで規模を拡大したり,輿丁確保の方法や還御ルートを変更したりするなど時代とともに内容を変容させながら継続していることが明らかになった.</p><p></p><p>4.氏子祭の課題</p><p> 2023年の調査時点では,輿丁の数は確保されているものの,輿丁の高齢化が課題となっていた.輿丁の年齢は,1960~1970年代には20歳代が中心であったが,2023年の調査時点では40歳代が中心であった.また,渡御行列の減少も課題となっていた.1960~1970年代には,約1,000人の行列であったが,2023年の調査時点では,500人ほどに減少していた.その要因は,渡御行列に参加する供奉団体の高齢化が挙げられる.供奉団体は志波彦神社・鹽竈神社の周辺地域で組織されており,氏子祭の運営にも携わっている.そのため,志波彦神社・鹽竈神社周辺地域の高齢化は,渡御行列を担う供奉団体の再生産を困難にするだけでなく,氏子祭そのものの継続が危ぶまれる要因となっている.今後は,供奉団体の体制や氏子祭の運営についても輿丁と同様に,広域的な担い手の確保が必要となるだろう.</p>

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詳細情報 詳細情報について

  • CRID
    1390297603758392832
  • DOI
    10.14866/ajg.2023a.0_68
  • 本文言語コード
    ja
  • データソース種別
    • JaLC
  • 抄録ライセンスフラグ
    使用不可

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